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第6話
慶と同室にしてもらった僕は、それからは和室に怯えることもなく穏やかな日々を送っていた。慶に教えてもらいながら洗濯物を畳んだり、制服にアイロンを掛けることも覚えた。最初は難しくて何度も失敗したけど、だんだんと楽しくなってきた。
慶と同室なことが当主にバレたときはひどくからかわれたけど――もう夫婦同室なのか、なんて慶にとってはタチの悪い冗談だ――慶は僕がいても然程気にならないみたいだし、僕も慶が同じ空間にいることはまったく苦痛じゃなかった。
元々プライベートで誰かと同じ空間を共有した経験はないから、慶以外だと苦痛になるのかどうかは分からないけど、話しかければすぐに返事が返ってくるのは単純に嬉しかった。僕は意外とさみしがりやだったらしい。
もちろん、お年頃なのでひとりで過ごしたいときもあったけど……僕は元々そういう欲求があまり無い方なので、たいして困らなかった。慶はどうなのか分からないけど、そういうことをしている場面に出くわしたことは今のところない。
慶は都会育ちの僕が退屈だろうと色んな場所へ連れ出してくれた。山にハイキングに行ったり、渓流で魚釣りをしたり、海に行って水平線に沈む夕陽を眺めたり。夜の道路で野生のシカに遭遇したときや、猿やイノシシの姿を見たときはひどく驚いたけど、動物は動物園だけにいるものじゃないという当たり前のことを僕は実感したのだった。
僕はそんな野性味溢れるここでの毎日が、以前の――都会での生活よりも、だいぶ楽しいと感じていた。そう言うと慶は笑って『気を遣わなくていいよ』となかなか信じてくれないけど、本当のことだ。
でも、慶がいなかったらたしかに退屈だったかもしれない。僕が退屈を感じないのは慶のおかげなんだ。
*
気付けば此処に来てもう三か月が過ぎようとしていた。学校は既に冬休みに入っていたけど、今朝僕と慶は早起きをして、バイクで遠乗りに来ていた。
相変わらず僕は慶の背中にしがみつくスタイルだけど、スピードを出されても怖くないし、ヘルメットだって自分で被れるようになっていた。
今日慶が連れて来てくれたのは、観光客も結構訪れるという神社の傍にある展望台だった。まだ少し早い時間なので、僕達以外の客の姿は見えない。
「はあ~、めちゃくちゃ寒いけどきもちいい! 天気が良くてよかった」
「今年は暖冬だからかあんまり雪も積もってないな。でももう少ししたら見えるところ一面真っ白になるぞ」
「へえ~、楽しみだなぁ」
「雪が解けたら春が来て、あの辺りは桜が満開になって凄く綺麗なんだ。早く更にも見せてやりたいな」
「うん、僕も見たい」
抜けるように澄んだ青空と、どこまでも連なる壮大な山々を見下ろして、僕はもう一度大きく腕を伸ばして深呼吸をした。
最初はとんでもないところに来てしまったと思ったけど、雲一つない大空を気持ちよさそうに羽を広げて舞う鷹の姿を眺めていると、自分の身に降りかかった不幸がなんだかとてもちっぽけなものに思えた。
というか僕は、ちっとも不幸なんかじゃなかったのだと気が付いた。財産をすべて他人に持って行かれて、住む場所も追われて、未来の展望も地位も何もかも失ったと思っていたけど。
そのおかげでって言ったらおかしいけど、こんなにも美しい景色を健康な身体で誰かと一緒に眺めることができている。僕は今も前と変わらず――否、前よりも幸せだった。そのことに気付かせてくれたのは慶だ。
「慶、僕此処に来て良かった。慶に会えて良かった。本当にありがとう」
「え、なんだよ急に。だから気を遣わなくていいって……」
「気なんて遣ってないよ。僕、ずっとここに――」
慶と一緒にいたい。
そう言いたかったのに、何故か涙が出そうになって僕は言葉に詰まってしまった。すると、慶が思い詰めたような声で僕の名前を呼んだ。
「更、」
そのまま僕の身体を引き寄せると、優しい手付きで僕の頬に触れて、顔を近付けて……。
「……慶?」
唇にマシュマロが触れたような、微妙すぎる感触がした。僕の認識が正しければ、今慶は僕にキスをした?
「更、俺は……うわっ!?」
「えっ!?」
僕達の間に流れていたなんともいえない甘酸っぱい空気を一変させたのは、慶の携帯端末に掛かってきた一本の電話だった。
「チッ……おいクソ親父! 今すっげぇいいところだったのに邪魔すん――え?」
僕は慶が舌打ちをするところを初めて見た。慶は電話越しに当主と話したあと、僕の方を見た。慶の表情はさっきまでの熱を孕んだようなものじゃなかった。それどころか、少し蒼褪めているような気がする。
「更、今うちにお前の親父さんが来てるらしい。お前のこと、迎えに来たって」
「――え?」
此処は都会に比べて時間の進み方がひどく遅い。なのですっかり呑気者になってしまった僕は、いつまでもこんな日々が続くと思っていたのだ。変わらぬものなどないと、僕は身を以て学習していたはずなのに。
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