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「あの、ひょっとしたら、だけど、ご主人のこと? ご主人に何か問題ある……?」
棚橋が背筋を伸ばして長い息を吐き、いつもとは違う弱々しい声で言った。
「愚痴、だと思って聞いてください」
「あ、ええ、わかりました」
「前にね、主人の会社の業績が落ちて、ボーナスも出ないってことがあって、年収がわたしのほうがちょっとだけ、ほんのちょっとだけなんですけど、多かった時期があったんです。そしたらね、いきなり怒りだしちゃって、ずうっと機嫌が悪くって、もうほんと、めんどくさかったんですよ。だから、わたしに肩書きがついたなんて聞いたら、きっともっと扱いに困るだろうな、って」
「でも、昇進だよ」
「昇進だから、ですよ。うちのダンナ、『ザ・九州男児』でね、女は男の前を歩くな、ってタイプなんです」
「それは……」
棚橋が皮肉な笑いを洩らした。
「死ぬ前に、ぎゅっ、て手を握って『ありがとう』って言えば美しく完結するって信じてんじゃないですか。おめでたいっていうか、幼いっていうか……。いいんですよ。ああいうの、もうどうにもなりませんから。もしもわたしに肩書きがつくことで松尾課長の負担が減るんだったら、わたし自身にはなーんにも問題ありません。副でもなんでもつけてくれって。あ、それに給料明細も今は紙じゃないし、バレませんよね」
「そうですね。くれぐれもパスワードは極秘に」
「気をつけます」
いたずらっぽく、でも少し寂しそうに笑った。
「もしもバレてめんどくさいことになったら、僕が出ていきます。ご主人を説得します。棚橋さんがいかに仕事のできる頼りになる人か、って力説しますから」
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