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子ども部屋でふたりを寝かしつけ、キッチンで後片づけをしている時に隆之が帰ってきた。午後9時をまわっていた。
「おかえりなさい。ご飯は?」
「いや、いい」
スーツではないから休日出勤ではなかったのだろう。誰とどこへ行っていたのかは、訊いても詳しく教えてくれないから訊かなくなった。仕事の関係だ、とあからさまに「わからないくせに」という顔をして返されるだけだ。
「ケーキ、食べる?」
「ケーキ……?」
「航の誕生日だから、今日」
ああ、と言って目を逸らしたのは、申しわけなさの表れだと梨花は思った。まだこの人にも良心ってものがあるらしい。ほんの、本当にほんの少しだけれど。
「プレゼントは?」
「渡したわよ」
「何を」
「ぬいぐるみ」
「なんの」
今日は梨花が「わからないくせに」の顔をしてアニメのキャラクターの名前を口にする。
「風呂、入る」と言い残してバスルームに消えた。
隆之のあとに風呂を使った。
梨花が寝室に入った時、隆之はベッドに座ってスマートフォンをいじっていた。ベッドはふたつ、ランプの乗った小さなサイドテーブルをはさんで並んでいる。その奥のほうのひとつで、枕をヘッドボードに立て、背中を預けて足を伸ばしていた。
ずっと迷っていた。
梨花は『悩む』ということがよくわからない。学生時代や、横浜の中規模の海運会社で仕事をしていた5年間、友人や同僚から、悩んでいる、と聞くことが何度もあった。人間関係、家庭環境、恋愛事情、金銭問題。背景はさまざまだが、そんな時、要はこうするべきか、ああするべきか、あるいは何もしないかの選択だろうと思った。複数の選択肢がすでに明確になっていて、そのうちのひとつを選ぶつもりなのであれば、それは『迷い』であって『悩み』ではない。それが梨花の感覚だった。
だからこれも『迷い』。そして、梨花はひとつを選んだ。
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