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第6話 アドバイス
光の勤める二階病棟は、いわゆる慢性期――病状が落ち着いていて、急激な変化等は見られない患者が多く入院している場所だ。患者の平均年齢は75歳で、ほぼ全員が高齢者である。なので業務内容は医療補助や看護よりも、主に介護がメインだ。
そんな二階病棟に大谷が移動してきて、早くも一週間が過ぎようとしていた。師弟関係もだいぶうちとけて、いまのところはとてもうまくいっている。
あのヨシヨシ事件(何故か同僚たちにそう呼ばれている)のあと、光が大谷の頭を撫でたりすることはないが、一部ではまたやらないかと密かに期待されているようだった。
*
「――大谷さん、移乗介助は苦手ですか?」
「え?」
患者を透析室に連れていくためにベッドから車椅子に移乗していたのだが、大谷のやり方に前から少し疑問を持っていた光が口を出した。
「患者さんを移乗するとき、腕の力だけで持ち上げているでしょう? それでも疲れないならいいんですけど、そのうち腰を痛めそうだなって」
「あー……実は苦手なんです、移乗。五階ではベッド上安静の患者さんが多いから、今までそんなにする機会がなくて……」
弱点を知られてしまった、という風に少し照れながら白状する年上の後輩がかわいい。光は大谷と場所を交代し、お手本でやってみせた。
「俺も一年目の頃は移乗が苦手でした」
「三澄さんはどうやって得意になったんですか? コツとかあるんですか?」
「もうちょっと身体を患者さんに近付けて……腰を使うんです。よっと」
「おお」
「ほら、これなら非力そうな俺でもあんまり力を使わずにできたって感じでしょう。……移乗中にべらべら喋ってごめんね、菊池さん」
光は、たったいま移乗介助をした高齢の女性患者に謝った。
「いいえぇ~。新人さん、お勉強中なんでしょう~? がんばってねぇ」
「新人はこっちの大きい人だよ……僕は前からここにいるでしょう?」
「んん~、そうだったかしらねぇ~?」
「ハハ……まあいっか」
高齢者が多いゆえ、認知症の患者も多い。患者には敬語を使わなければいけないが、何年も働いているとついタメ口になってしまう。スタッフみんなで直していこうと日々声を掛けあっているものの、なかなか習慣づかない。
「他の部屋の透析患者さんも一緒に送っていくんで、シャント部位に痛み止めのパッチが貼られているかの確認と、部屋持ちさんに申し送り内容の確認をお願いします」
「分かりました」
介護がメインだが、細々とした看護業務はたくさん存在する。今は病棟に数人いる透析患者を集めて、透析室へと送迎する時間だ。
*
「二階病棟の三澄ですが、今日の透析室のリーダーさんはどなたでしょうか?」
透析室のベッドに患者を全員移乗したあと、光は透析室のスタッフがいる方々に声を掛けた。
「はーい、お待たせしました!」
「お疲れ様です、榛名主任」
「お疲れ様、三澄君。あ、大谷君二階に移動になったんだって? 三澄君がプリセプターなの?」
光と大谷の顔を交互に見るなり、透析室の看護師主任の榛名が尋ねた。榛名は教育委員会に所属しているため、光も大谷も入職時から何かと世話になっている。
「はい」
「そっか、分からないことがあったらいつでも相談してね。大谷君も移動したばかりで大変だろうけど、頑張って。では申し送りをお願いします」
「はい、北田さんは昨夜38.5度の熱発があって……」
*
「榛名主任って、たしか俺と同い年なんですよね……」
透析室を出たあと、大谷が言った。
「え、そうでしたっけ?」
光は榛名の年齢までは知らなかったが、もっと若いのかと思っていた。でも言われてみれば、28より若かったら自分と年が近くなるし、他のベテランをさしおいて看護師主任は務まらないだろう。
「同い年なのにめちゃくちゃしっかりしてるから、自分と比べてはヘコみます……」
「そんな、榛名主任はもうベテランナースですから」
「もちろん分かってるんですけどね、ちょっと愚痴ってみました。三澄さん優しいから、ついなんでも言っちゃいます。そうだ、またヨシヨシしてくれませんか?」
「も、もうしませんよぉ……」
光は、大谷が本当にヨシヨシしてもらいたいのか、単にからかっているだけなのかよく分からない。できれば後者だと思いたい。
それにそこまで言われるほど光は優しくないし、時々あなたをオカズにオナっている最低な先輩ですよ……とは言えるはずもないので、黙っていた。
「三澄さんみたいに優しい人がプリセプターで、俺は幸せです」
「また大げさな……」
まあ嫌われるよりいいか、と光は曖昧に笑い返した。
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