その悲鳴を二度と聞き逃さない

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「また怒られちゃったの?」  そう呆れがちな顔をする奈央(なお)に、俺は「ああ」と短く答える。上司の覚えが悪いのは今更だ。そうでなくとも、あの場で母親の要求を呑むわけにはいかなかった。 「あんな母親に児童を返すわけにはいかないからな」 「お母さんの恋人にやられたんだっけ。それ、春太(はるた)が絶対許さないやつじゃん」 「ケースに優劣はない。虐待は虐待だ。何であれ許すわけにはいかない」 「優劣の話じゃないよ。わかってるくせに」  そして奈央はなぜか寂しく笑うと、テラスの外へと視線を移す。お互いに忙しい俺達のデートは、結局いつも、この駅前のカフェに落ち着いてしまう。 「今度、ね、職場の先輩が結婚するの。それで……式に招待されちゃって。またご祝儀包まなきゃ」 「大変だな」  妙な沈黙がテーブルを包んで、やはりそういう意図で今の話を振ったのか、と俺は思う。多分……奈央は俺と結婚したいのだろう。実際ここ最近、結婚絡みの話題が妙に多い。振るのは主に奈央で、その無言の圧を俺はやはり無言のまま躱す。そんな攻防がここしばらく続いている。  確かに奈央は二七歳。嫌でも結婚を意識する年齢だろう。が、だったらさっさと別の男を探せばいい。そもそも俺は付き合う当初、誰とも家庭を儲けるつもりはないと彼女に告げているのだ。 「結婚は……しないんだろ、俺達は」  すると奈央はぎょっと振り返り、それから、萎れた向日葵のように項垂れる。 「うん……そういう約束、だったもんね。……でもね春太。人って、変わるんだよ」  そして最後に「ごめんね」と言い残し奈央は席を立つ。そのまま彼女は、早足で店を飛び出してしまった。俺の方には一度も振り返りもせず。  それから間を置かず、俺も店を出る。  奈央のことは愛している。彼女と一緒に過ごす時間は、何よりも俺を満たしてくれる。それは一般に、幸福と呼ばれるものだろう。ただ……だからこそ俺は、家族として彼女と結ばれるべきではないのだとも思う。  あの時、俺は守れなかった。たった一人の家族を。  そのまま俺はまっすぐにマンションへと向かう。夜の住宅街は繁華街とは違い、ひどく静まり返っている。その静寂に満ちた夜道を歩きながら、俺はじっと耳を澄ます。
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