君に伝えたい事がある

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   相原の自宅は、うちから2駅離れたところにある。縦長の高級賃貸マンションの3階。  僕はエレベーターのボタンを押しても待ち切れず、横の階段を駆け上がった。ハァハァと、荒く白い息を吐きながら辿り着いたドアに突っ伏して、一旦呼吸を整える。相原が家にいるかはわからない。  頼む。何かの間違いであってほしい。祈るような気持ちで、ドア横のチャイムを鳴らす。3度目のチャイムでドア鍵が解錠され静かにドアが開くと、僅かな隙間からのぞく相原と目が合った。  僕がここに来る理由を想定していたのか、彼の目の奥が微かに揺れていた。フード付きのグレーの上下のスウェット。片手をポケットに突っ込み、ドアノブを握った方の腕でドアを大きく開き、僕を招き入れる。    「おかえり。帰国は今日だったな。傘も差さずに来たのか?」  僕の肩に積もった雪を軽く払い、いつもの緩いトーンで相原が訊いてきた。僕は何も言わず玄関に入り靴を脱ぐと、廊下の突き当りのリビングへ向かう。  横長に広がる白黒のモノトーンの部屋。ガラス窓の向こうは、ちぎった綿のような雪が紙吹雪のように舞っていた。  部屋の片隅で間接照明が灯り、ガラス製のサイドテーブルの上には飲みかけのマグカップ、医療関係の資料が広げられ、開いたノートパソコンが鈍い光を放っていた。    「珈琲でいいか?」  キッチンカウンターでドリッパーを握る相原とまた目が合う。耳上で短く切った猫っ毛が無造作にうねり、その下の大きな黒目が僕を見ていた。   これから僕が何を話すのか、彼は知っている。    「相原、遥香と寝たのか?」  前置きなど必要ない。僕は短刀直入に訊いた。僅かな沈黙。パソコンのモーター音だけが、やたら耳に響く。  相原は表情を変えず、黙ってドリッパーをカウンターに置いた。  「あぁ、そうだな」     こんな時ですら淡々としている相原に沸々と苛立ちが込み上げるも、僕にだって職業柄それをコントロールする術が身に付いている。  「何で遥香と寝たの?」   「遥香ちゃん不安がってたよ。お前がいなくて寂しいって」  「そんなの理由にならないよ」  「お前さぁ、遥香ちゃんと結婚してほんとに幸せなのか? ほんとにお前が幸せなら、彼女も不安になったりしないはすだよ?」  「どういう意味だよ?」  「遥香ちゃん言ってたぞ、お前に愛されてない。他に誰か好きな人がいるみたいだって」  「....」  突然予期しない角度から真相を突かれ、僕はおもわず言葉に詰まった。    「お前好きなヤツ他にいるの?」  「..いや....」    僕は相原から左下に目線を逸らした。  相原は僕が嘘を付く時の仕草を、昔からよく知っている。  「だったら、何で遥香ちゃんと結婚したんだよ。一緒になれないヤツでも好きになったのか?」  「相原には関係ないだろ」  「ないよ。ないけど、遥香ちゃん見てるとほっとけなかった。俺は好きな人に気付いてもらえない事が、どれだけ寂しいものかよく知っている。だから、彼女を受け入れた」  「やめろ」  遥香と寝た理由を、まるで真っ当な事のように堂々と白状する。相原らしいと思った。気付くと、僕と相原の立場が逆転していた。  キッチンから、相原が少しづつ僕の方に歩み寄る。    「俺は無理だな」  「何がだよ」  「俺は誰かを傷付けるなら、ずっと一人でいる。お前のように自分に嘘を付いて安牌(あんぱい)の道は選べない」  「黙れ! お前さっきから何言ってんの? 自分の言ってる事わかってんのか?」  とうとう踏み込まれたくない場所に相原が入ってきた。僕はおもわず語気を荒げて詰め寄り、スウェットの首元を締め上げる。  互いに息がかかるほどの距離。憤りの熱で口の中がどんどん干上がる。勢いに任せて僕より少しだけ背が高い相原を睨み上げると、彼は抵抗せず悲しい目で僕を見下ろしていた。    「俺だって苦しいんだよ....」  「相原....」  「あの頃と変わらず、俺はいつだって自分に嘘はついていない」  それまで一定を保っていた相原の黒い瞳が赤く潤み、僕は何も言えなくなった。彼は今にも零れてしまいそうなを何かを湛え、唇を震わせる。  「俺はお前がずっと好きだったから....」    ずっと前に封印したはずの扉が開き、僕の思考は停止する。    「相原、何で....」  「俺、ずっと苦しかった。お前に本当の気持ち言えないまま、ずっと友達のフリするの」  「....」  「いつお前に好きなヤツできるか、ほんとはビクビクしてた。遥香ちゃんと結婚するって聞いた時、マジで死にそうだった」    もうずっと前から相原の気持ちには気付いていた。  遥香と出会ってからは、薄氷を踏む危うさで相原との関係をなんとか保とうとしていた。  氷は僕が思った以上に(もろ)かったらしい。  だけど僕は自分が歩いてきたレールの軌道修正は、もうできない。  喉の奥に熱いものが込み上げると、僕を見つめる相原の顔が大きく揺らいで見えた。(まぶた)から雫があふれ出した途端、僕は相原を部屋の壁に追いやり吐き捨てるように叫んだ。    「何でっ何で今言うんだよ! 遥香はお前の子供を身ごもったんだぞ!」  一瞬にして、相原は呼吸を忘れたような顔をする。彼の大きく見開いた目から、次第にポロポロと大粒の涙が溢れ出す。徐に僕を見ると「嘘だろ‥」と肩を震わせ、そのまま壁にもたれ僕を道連れにして座り込んだ。   二人の間には、気の遠くなるような無言の時間が流れる。僕にはもう相原を責める気持ちなどなくなっていた。  しばらくして、部屋の天井を眺めながら相原が口を開く。  「お前いつかだったか、法律が変わったら俺達結婚するのもありかもなって言ってたよな」    唐突に何を言い出すかと思ったけど、その言葉は僕の方がよく覚えている。僕と相原の友情の証だったから。  「あぁ、言った。でもあれは」   「冗談だろ? 知ってるよ。でも俺はそれが冗談でも嬉しかった」  そしてまた短い沈黙の後、  「わるかった....」  相原はそう僕に一言詫びた後、責任はちゃんと取らせてくれと付け足す。  翌日、僕の銀行口座にはもらい過ぎなくらいの金額が相原から振り込まれていた。  それからその一週間後、相原は誰にも何も言わず、自らの命を断った。
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