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君に伝えたい事がある
窓の外が、いつの間にか明るくなっていた。
雨は夜のうちに止んだようで、陽の光を含んだ雫が点々と透明のガラスを照らし、互いを道連れにして滑り落ちていく。
ぼんやり重い瞼をこすり、白い壁にかけられた時計を見ると午前6時を過ぎようとしていた。
まるで高熱と闘ったあとのように、ひどく喉が乾いている。額に腕を乗せ、仰向けになると白い天井の模様が、虫食い穴のように見えた。
パイプ製の簡易ベッドから、ガチガチに強張った背中を起こし、サイドテーブルに置いた飲みかけのミネラルウォーターのキャップをひねる。ぬるい液体が干からびた口の中を通り過ぎると、僕はあえて喉を鳴らして飲みほした。
隣のベッドでは、遥香がぐっすり眠っている。
もう少しすれば、看護士が検温にくる。少なくとも眠気で惚けた意識だけは覚ましておかなければ。
昨夜の僕は人生で初めての経験を経て、かなり興奮状態にあった。そのせいかほとんど眠れず、頭も体も使いものにならないほどに疲弊している。
ぐるりと重い頭を回し、親指と人差し指で眉間を揉み解していると、分娩台でのたうち回る遥香が眼裏に蘇った。
僕の手を強く握り、次第に汗ばんでいく指の腹。力むたび苦しそうに顔をしかめる彼女に、堪らなく胸を締め付けられた。こんな時、男は本当に見守る事しか何も出来ない。
インターバルが次第に短くなって、何度も上がっては下る呼吸のリズム。彼女を取り囲むように、助産師と看護士が声を掛け合い忙しなく動き回る。
分娩室は、いつしか遥香の悶絶の嵐に取り巻かれ、立ち込める熱気と共に獣のにおいがしていた。
命を産み出す瞬間というのは、きっと人間も動物も関係なく自然の一部に還っていくのかもしれない。
やがて、遥香の足元から小さな産声が聞こえた時、安堵感で一気に全身の力が抜け、僕はその場に崩れ落ちるように座り込んでしまった。
ただその場にいただけなのに、全速力で何キロも走ったような気分だった。
何時間にもおよぶ、ピンと張り詰めた緊張からやっと解放され、これから沸々と湧き上がってくるだろうその感情は、きっと誰もが希望に満ちた光り輝くものであるはずに違いない。そうあってほしいと、どこか救いを求めるような気持ちで、そう信じていた。
なのに、やっぱり僕にはそれがなかった。
湧き上がってきたのは、どうしようもなく途方に暮れる暗澹とした気持ち。不安と後悔が複雑に絡み合う、簡単には解けない糸くずのような。
でも僕は、その感情の理由を知っている。
もしあの時、僕も全てを捨てて本当の自分を曝け出していたら、あんな悲しい出来事など起きずに済んだかもしれない。
でも、もう後戻りができなかったんだ。
僕は君が全てを告白してくれたあの日を忘れない。
雪が舞い散る空。部屋の片隅で震えるあの寂しそうな目が、まだ僕を見ている。
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