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コンクールが近づくと母が口うるさくなる。
時代遅れの詰め込みレッスンを強要してくるのだ。
最低一日八時間は練習しろだなんて正気じゃない。長時間の練習は聴力にも悪影響を与えるし、腱鞘炎の原因にもなる。
つまり、彼女にとって重要なのは自分の夢であって息子の健康や意思などはどうでもいいのだ。
すぐに帰宅して練習しないとヒステリックな声で罵られることは理解しているのに帰りたくなくて足が勝手に公園へと向かっていた。
小さい頃卓也とよく遊んだ公園だ。
遊んだと言っても僕に許されたのはゲーム機を持ち込んで対戦するくらいで、遊具や砂場では遊ばせて貰えなかった。指を怪我したら困るというのが母の言い分だ。
日が傾きはじめたのに小学生くらいの子供達がベンチや滑り台の近くに固まってゲーム機を持っている。遊具で遊ばないで対戦ゲームをプレイしているらしい。だったら誰かの家に集まって遊べばいいのにと思ったけれど、自宅に余所の子供を入れたくない親も多いのだろう。母もそうだったと思い出す。
せっかく空いているからと、ブランコに腰を下ろしてみた。
子供の頃は憧れだったはずなのに、いざ座って見るとよくわからない。なににそんなに憧れたのだろうか。
「椅子じゃないんだぞ」
背後からからかうような声が響いたかと思うと、背中に衝撃があった。その反動でブランコが前後に動き始める。
「卓也?」
「うちの学校の制服が見えたかと思って来てみたら蓮でびっくりしたよ。コンクール前だろ? こんなところで油売ってて大丈夫なのか?」
「ぜんぜん大丈夫じゃないよ」
冗談のようにそう言って笑ってみせるけれど、本当にぜんぜん大丈夫なんかじゃない。
「珍しい。悩み事でもあるの?」
卓也はまた僕の背を押してブランコを動かす。
悩みはいつだってある。卓也には言えないだけで。
「べつに。レッスンが嫌で逃げてきただけだよ」
それも本当。
今無理に練習したところで実りある成果は得られないだろう。
「音楽って不思議だよね。心が乱れていると音まで乱れるんだ」
「それって結構辛い悩みがあるってことだろう?」
そう返され、失言だったと思う。
「誰かに話すだけでも少し楽になるんじゃないか? 俺でよかったら聞くよ」
その代わり、と卓也は続ける。
「川村の連絡先教えてくれない?」
「は?」
思わず素の声が出た。
「なんで僕が川村の連絡先知ってる前提なの?」
「こないだ二人で話してただろ? 仲いいんじゃないのか?」
「まさか。いつも言ってるだろう? 僕にも選ぶ権利はあるんだ」
川村は好みじゃない。そうじゃなくても卓也が好きな相手に手を出したりはしない。
「川村彼氏と別れたって噂じゃん」
「僕には関係ないよ」
そう。彼氏。川村は彼氏がいたけれど、たぶん僕と同類。
だからこそ、川村みたいな人間は嫌いだ。
「蓮がそこまで個人を嫌うの、珍しいんだよ。なにか言われたの?」
「たいしたことは言われてないよ。ただ、ああいう人間が苦手なだけ」
同性愛者のくせに異性と交際するような人間が嫌いだ。自分を誤魔化して生きるだけならまだしも、他人まで利用するなんて。そう考えてしまう。
「見た目は派手だけど悪いやつじゃないだろ」
卓也は川村の本性を知らないからそんなことが言えるんだ。
その言葉はなんとか飲み込む。
川村のことが嫌いでも勝手にそういう話をしていいわけではない。
「コンクール前だから少しナイーヴになっているだけだよ。ごめん」
そう言って話を打ち切ろうとする。
「蓮、無理はするなよ」
案ずるような言葉をかけられれば、それだけで舞い上がってしまいそうだ。
その感情に居心地が悪くなる。
「うん、そろそろ帰らないと。警察沙汰になったら大変だ」
揺れるブランコを足で止める。
「家まで送るよ」
「いいよ。これでも男なんでね」
見た目が男らしくないだとか、女装が似合いそうだとか散々言われているけれど、一度も自分が女性になりたいと思ったことはない。
卓也にまで女子扱いされそうになるのは避けたかった。
「悪い。一緒に帰ろう。どうせ近所だ」
卓也は笑うけれど、なんとなくこれ以上一緒に居たくない。
「楽器屋寄って帰るから一人で帰る」
「そっか……じゃあ、また。学校で」
「うん」
別に必要な物があるわけでもない。新しい楽譜だとか、鍵盤クリーナーだとかなんとなく理由をつけようと思ったけれど、購入する必要は全く浮かばない。
ただ寄り道の言い訳になりそうなものを用意しようとして、楽器屋をぶらぶら歩く。
メンタルに悪い。母も、卓也も。川村も。
卓也には幸せになって欲しいと思っている。卓也は僕と違って普通の恋愛ができるから、いつか家庭を持って幸せになって欲しい。僕は時々玩具を買って子供と遊びに行くような友人ポジションくらいの人生でいいと思っていた。卓也の嫁には嫌がられそうなポジションだ。
自分の恋愛は諦めている。諦めていたつもりだった。
なのに、川村がちらつく。
「げっ、中村……」
考えていたせいか、買うつもりもない木管楽器のコーナーで知った顔と目が合ってしまった。
「川村? 吹奏楽だっけ?」
人の顔を見て「げっ」だなんて失礼だなと思ったけれど、僕も似たような感情を抱いていたので無理矢理誤魔化すように訊ねた。
「私は付き添い」
「ふぅん?」
付き添いってことは新しい男だろうか。どうせ派手な髪でギターだとかベースだとか弾いているようなやつだろうと偏見まみれで川村の親指が示した方に視線を向ければ同じ学校の制服を着た大人しそうな女子が目に入った。
「……デートの邪魔しちゃった?」
「別に、邪魔じゃないけど……」
川村は視線を落とす。
それからハッとしたようすで僕の腕を掴んだ。
「ちょっと来て」
ぐいぐいと腕を引っ張られ人目につきにくい民族楽器関連の書籍が集まった棚の前まで連れてこられる。
「痛いな。なに?」
「……デートじゃない」
どうしてか、川村が僅かに恥じらうような様子で言う。
「説得力はないけどそう言うことにしておくよ。僕には関係ないし」
あの女子の名前も知らない。言いふらしたりなんてしないのに。
「……理沙に迷惑かけたくなくて……ごめん」
「別に。興味ないよ」
川村が誰と付き合っていようと僕には関係ない。
ただ、彼氏と別れたという噂を聞いて、自分にもチャンスが巡ってくるかも知れないと期待していそうな卓也が少しだけ心配になる。
「女子は、べたべたしててもあんまり目立たないからそこまで神経質にならなくてもいいんじゃないの?」
川村はカモフラージュに男と付き合えるような人間だ。
「中村って結構ドライなんだね」
川村は少しだけ意外そうに言う。
「それより、こんなに強く手を引っ張られて痕が残ってるんだけど? コンクール前に負傷したとか母がうるさいから勘弁してよね」
女子とは思えない力強さだった。
「わっ、ご、ごめん……わざとじゃないんだ」
故意かどうかは僕には関係ない。
けれども気が立ってしまう理由も理解出来てしまう。
「いいよ。僕は……雑誌買ったら帰るから」
誤魔化すように、ピアノ雑誌を一冊買って店を出た。
その間にすれ違った理沙とかいう女子に睨まれた気はするけれど、どうでもいい。
ただ、胸の奥のざわつきが大きくなったような気がした。
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