第7章 馴れてゆく身体

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彼女は音を立てずにすっすっ、と慣れた足捌きで長い廊下を進んでいく。わたしを安心させようとしてか、穏やかな声で付け加えた。 「大丈夫,今日はあの地下の部屋にはいかないから。普通にわたしの自室よ。変なことをするつもりもないし、安心して」 「ええ、まあ。ありがとうございます」 わたしはさっきよりほんの少し多めに警戒を解いた。漣さんも同じこと言ってたし、信用していいのかな。少なくとも双子の言うことより水底さんの保証の方が信用度が高いことは確かだ。 手を引かれたまま、前に屋敷の中を案内してもらったときには立ち入らなかったエリアに足を踏み入れる。促されて入った部屋は意外にも、そこだけ和室から改装されたと思しきごく一般的な洋風の個室だった。 「ここがわたしの部屋。結構普通でしょ?」 思わずぐるりと室内を見回してしまった。彼女はわたしにベッドに座るよう手で勧め、ちょっと恥ずかしそうにはにかんだ。 ありがとうございます、と頭を下げて浅くちょこんと腰かける。壁際に置かれてるあれは、学習机かな?しっかり使い込まれてるけど、学童用にしては重厚で高級そうな品だ。成人してもそのまま使い続けられるように気張っていいものを用意したのかもしれない。 その上に置かれたガラス製のピッチャーを手に取る彼女に声をかけた。 「思ってたのと全然違います。普通に、自分ちのとか友達の部屋みたい。絶対障子とか襖で畳の和室だと思ってた。大河ドラマに出てくるようなやつ」 「わたしが生まれたときに子ども部屋として改装されたみたい。それまでは本当に,畳敷の和室だったらしいわ」 そんな会話や室内の凝った設えからも、彼女が跡継ぎじゃない第三子の女子だったからといって、粗末に扱われてないことが伺える。まあ、そもそも。こんな洒脱なデザインの高級そうなお着物(しかも、見るたびに違う)を身に着けてらっしゃるところを見ても。下にも置かないお嬢様待遇なのは、最初から疑うべくもないのだが…。 「お部屋は洋室なのに、お着物で過ごされてるんですね」 素朴な疑問を口にする。水底さんはちょっと頬を染めて、水滴のついた冷えた様子のピッチャーからグラスに水を注いでこっちに手渡してきた。 「これは湧き水だけど、今日のは何も入ってないから。安心して飲んで。わたしも同じのを飲むから…。えーと,実はね。着物はお客様の来るとき用なんだ。普段は普通に洋服で過ごしてる。だって、そっちの方がやっぱり楽なんだもん。…兄たちも何も言わないから。最近はまあいいかな、って」 「えー、そうなんですか。洋装姿も見たいです」 わたしに冷たいグラスを渡して、自分用にと盆に置かれたもう一つのグラスにも水を注ぐ。そうか、確かに。思えば先週は玄関先で凪さんが出してきた水を飲んでから気を失ったんだっけな。 すっかり忘れてたけど、あのグラスの中に睡眠薬か何かが仕込まれてたってことか。 今目の前で、同じピッチャーから注いだ水にわたしより早く口をつけてみせてくれてるのは、同じことは今回はないよと保証してくれてるんだろう。気を遣ってくれてるんだ、と思うとそれは一応ありがたい。 それに、考えてみたら。このあとどうせ凪さんが作ったバースデーランチを食べるわけだし(漣さんもそっちを手伝ってるはずだし)。そこで出される料理に薬が入ってるかどうか、もうわたしには判断のしようもない。この家に来ちゃった時点である程度のことは腹を括るしかないんだよな。 そう考えて素直に水の入ったグラスを煽った。冷えきった涼やかな水が喉を潤して身体に染み渡っていく。本当に美味しい湧き水であることは確かだ。効能に関しては未だ眉に唾をつけるより他ないが。 空になったグラスを受け取るべく手を差し伸べながら、水底さんはちょっと照れ気味な様子でぶっきらぼうに答えた。 「本当に全然普通の格好だから。わざわざ見るほどのこともないわよ。スカートとブラウスとか、そんな感じ。…でも、今度柚季さんが来るときにはもうそれでもいいかな。お客様だけど、もうお友達というか。身内みたいなものだし」 「うん、お着物は素敵で目の保養だけど。もちろん、水底さんが楽な方がいいですよ」 調子に乗って浮き浮きと請け合ったけど。友達はともかく、身内に分類されるのは、うん。…そういう意味なのかな、と思うと。まだわたしがこの家に嫁入りするって決定したわけじゃないし。微妙って言えば微妙かな…。 ありがたいことに、今回の水に問題がないのは事実だったみたいでわたしと彼女がそのまましばらく和気藹々と話してる間も体調の変化は起こらなかった。 話の流れの中で、あのあと健康上の問題は特にないみたいだけど、学校でやっぱり周りの人たちが自分をどう見てるのかが結局気になってもやもやする。って愚痴をぽろっとこぼしたところで先程の水底さんのフォローに戻る。 だんだん年長者への遠慮がなくなって友達スタンスになりかけてたわたしは、すかさず口を尖らせてずっと引っかかってた懸念を言葉にして返した。
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