Caph

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Caph

 真っ暗で静かな空間だった。何も見えない。何も聞こえない。この世の終わりのような静けさの中で私は目覚めた。  自分の置かれている状況が分からずに体を起こそうとして全身の感覚がないことに気が付いた。腕も足も動かすことができない。  周囲を見回そうと首を起こそうとしても私の体はピクリとも動いてくれなかった。何も思い出せなかった。どうしてこんな状況になっているのか分からなかった。直近の記憶がないそれが何より怖かった。  パニックになり叫び声を上げた。口は動く。しかし、私の叫び声は私の耳に届かなかった。意識が混乱する。何が起こっているのか分からない。  恐怖が私の全身を貫く。怖くて怖くて仕方がなかった。  ふと、目の前に誰かが立っているような気配がした。私の胸元に手が置かれる。冷たい手だった。その冷たさが恐怖をさらに加速させる。その冷たい手は私の胸元の上で蠢く。それは指で何か文字を書いているようだった。 「も・う・は・な・さ・な・い」  もう離さない。その意味に気が付いた時、私は再び叫んだ。しかし、すぐに冷たい手が私を押さえつける。 「し・ん・ぱ・い・し・な・い・で・わ・た・し・が・お・せ・わ・し・て・あ・げ・る」  女だ。と直感的にわかる。手の小ささと指の細さもあって確信する。その女はその後も私の胸元に文字を書き続けた。私はどうやらこの女に攫われて監禁されているようだった。女は私のことがずっと好きだったという。いつもずっと遠くから見ていることしかできなかったが、それだけでは満足できなかったらしく。私をスタンガンで襲撃し攫ったらしかった。  私は結婚していると言った。言ったと思う。自分の声が聞こえないし、何も見えないのではっきりは分からなかったが。女は知っていると書いてきた。私は絶句するしかない。これからはずっと一緒だと女は書いてくる。あなたは何も心配しなくていいと。  それから、私と女の奇妙な共同生活が始まった。女が私を好きだと言うのは嘘ではないようで、私はとても丁重に扱われ、女は甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。体は毎日拭いてくれていたし、食事は私の口に運んで食べさせてくれた。ただし、薄味というよりもほとんど味のしないような料理だったので私は飲み込むのが大変だった。  女は私の体を決して自由にはしてくれなかった。ずっと目隠しをされていて視界は常に暗闇だった。部屋も真っ暗にしているらしく、目隠しを外されたような感覚がある時も何も見えなかった。  体はベットに固定されているようで腕も足も首も自由に動かすことができなかった。女がいない時になんとか逃げ出そうともがいてみたがよほど強く固定されているのか、まったく動かすことができなかった。  とにかく、どうにかして逃げ出すために女の素性を探ってみることにした。女は私の質問には素直に答える。名前、住んでいる場所、年齢。個人情報も構わずに教えてくれるのは私がここから逃げ出せるはずがないと思っているからだろう。  ただ、その個人情報は嘘だろうと私は考えていた。なぜなら、女は絶対に私の前に姿を見せなかったし、声も聴かせなかったからだ。この真っ暗な部屋で目隠しもされていては女の姿を見ることはできなかったし、私の質問には女は必ず胸元に指で文字を書いて答えていたからだ。  もしかすると、私の身近な人間なのかもしれないと考えていた。声を聴かれると私に正体がバレてしまうような。必ず、逃げてやる。私はその一心で日々を過ごしていた。  家に帰って妻と娘に再会する。それが私の一番の望み。その希望があったからこそ、私は誘拐犯に生活の世話をされるという屈辱にも耐えられたのだ。  女との奇妙な生活が始まって一年が過ぎた。考えられるだけの行動を起こしたが、私は未だにとらわれたままだった。もう、このまま一生過ごさなければいけないのか。  そう思ってあきらめかけた時、女が書いた。あなたの娘、小学校に入学したのね。母親に似て可愛くない顔してる。  私と妻に手を出したら許さない! と叫んでいた。女が笑った。そんな気がした。胸元に置いてあった手がわずかに震えていたからだ。  女はあんな二人の事忘れさせてあげると書いてきたので私の頭は怒りでおかしくなりそうだった。  それから十年以上の月日が流れる。私はやはり監禁されたままだった。警察はいったい何をしているんだと憤ったこともあった。何度も死んでしまいたいと思ったこともあった。しかし、その度に女に娘と妻の状況をつまびらかに報告されて、絶対に二人の元に帰らなければと思いなおした。  そんな時間が流れていたある日、娘が結婚すると言う話を女が書いた。そんなに長い時間が流れてしまったのかと私は思う。私の中では娘はまだ小さい女の子のままなのに。  それでも、幸せには暮らしているようだとそう思えた事で、涙が流れた。流れたと思う。監禁されてから絶対に泣かないと決めていたのに、初めて涙が流れた。娘の側にいてやれなかった事の悔しさなのか。それとも幸せに暮らしてくれていると言う喜びなのか。私自身にも分からなかった。  結婚の知らせを書いた次の日からぱったりと女が姿を現さなくなった。この二十年姿を現さなかった日なんて一日もなかったのに。心に奇妙な感覚がある。まるで穴でも開いたかのような。そう思ってしまったことで私は罪悪感を感じてしまう。ただ、誰もいないこの部屋には静けさが横たわっていた。  ふと、誰かが私の前に立っている気配がした。まるで、私が誘拐されて初めて目が覚めた時と同じように。その人物は私の胸元にそっと手を置いた。  その手はとても暖かく。柔らかった。私を慈しむように優しく触れる。そして、ゆっくりと指を動かした。 「お・と・う・さ・ん」  その手は確かにそう書いた。私は娘の名前を呼んだ。ぽたりと胸元に暖かい水滴が落ちるのを感じる。 「お・か・あ・さ・ん・が・な・く・な・っ・た」  震える手で娘は私に書いた。私は衝撃を受ける。  娘は振るえる指で語った。二十年前。私がビル工事の事故で鉄骨の下敷きになった事。一命は取り留めたものの、全身に麻痺が残り、視力も聴力も失ってしまったこと、目を覚ました時にパニックで叫び取り乱していたこと。精神が壊れるほどに。  そして、。と。状況を理解できない私を落ち着かせるために仕方がなかったのだと言う。  本当のことを言えば本当にお父さんは壊れてしまいそうだったと娘は言う。私が目を覚ました時、娘も側にいたらしく、取り乱す私を見て怖くて泣いてしまったと言う。  それ以来、妻は毎日欠かさず私の入院している病院に通い、看病をしていたという。私を誘拐したストーカーだと嘯いて。何も音のしない暗闇の中にいたのは暗い部屋に監禁されていたわけではなく視力と聴力がなかった。監禁されていたわけではなく私の体はすでに麻痺で動かなかった。ただそれだけのことだった。  妻は私が死んでしまいたいと思わないように、ずっと恨まれ役を演じてくれていたのだ。生きる気力がなくなりそうな私に娘の近況を教えてくれていたのは私に生きる気力を与えたかったのと、自分の娘の状況を教えてくれていたのだろう。  私は、また泣いた。泣いたと思う。その感覚すら私には感じることができなかった。妻はずっと癌と闘病していたらしい。自分自身も大変な状況だと言うのに私の看病は絶対にやめなかったそうだ。そして、二日前。娘の結婚を私に報告した日。急に倒れた妻はそのまま目を覚ますことは無かった。 「お母さんを許してあげて。お父さんを監禁している何て嘘をついたお母さんを。お母さんはお父さんをずっと好きだったんだよ。だから、嘘をついてでもずっと側にいたんだよ」  娘は泣きながら私の胸にそう書いた。私はゆっくりと口を開く。自分の耳には届かない言葉で。 「……知っていた」  娘が驚く気配がする。  そう。気が付いていた。気が付かないわけがなかった。  なぜなら、妻は。彼女は私のCaphなのだから。  
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