テノヒラガエシ

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いつから、小説を書き始めたのかもう覚えていない ただ、遅筆の僕は数年に長篇一本しあげるのがやっとで、書く度に時間と、家族の信頼を失っていくようだった。 「いつまで書いてるの?」 「ああ、ごめん、もうすぐ終わるから」 「……そう、あなたもたまには外へ出て遊べばいいのに」 目の奥に疲れを感じ、言われた通り外に出る 外に出ても、脳内はネタ探しだった。 揺れる木々を、枯れた空気を、消えかけの電球をなにに例えようか 普通に描写してはつまらない たった一言、公園を夜散歩したというだけの内容を、ありとあらゆる語彙で飾りたい 僕はたどり着いた公園でホットのミルクココアを買い、家に戻ってふたたび原稿にむかった。 一時間、二時間がすぎる 同じ姿勢をつづけた肩をまわし、ふと過去に応募した小説を見返した。 自分ではいい出来だと思っていた。 でも世間からは評価されなかった。 「ふー……」 そんな日々を送っていると、母が病気で倒れた。 父からは、いい加減まじめに働けと言われ 時短で安月給の工場をやめて、普通に就職し直した 小説をかける時間は減ったが、父と母はやっとまともになってくれた と喜ぶだけであった。 「あの、好きです 付き合ってください」 そのうち、彼女ができた。 実家からも出れたし、彼女ができたし 世間的にはいいこと尽くめだった もう、ペンを握る必要はないだろう、誰も喜ばない自己満足の小説を書いて、なにになる しかし僕は休日の空き時間 原稿にむかう。 言葉が、世界があふれるようで 家にいながらどこにでもいけた 書くことは、僕が僕であることの証明のようだった だからこそ、他のことで褒められても、恋愛的に好きといわれても、過去に小説でもらった「面白かったです」 という言葉だけが自分を肯定し、ずっと宝物として残っているような、僕はそんなどうしようもない人間だった。 彼女は一度も僕の小説を読んだことはなく 「ねー、遊びに行こうよ いつもなにしてるの?」 無邪気に僕を急かすばかり。 しかし言われたとおりだった 本当に、僕は何をしているんだろうか ペンをすすめる理由よりも ペンを止める理由のほうが多い 『いつまでそんなもの書いてるんだ くだらない』 『そもそも小説ってよく面白さがわからないんだよね、だって実際に起きたことじゃないんでしょ?』 『妄想を勝手に読まされてもな』 『もう、やめたら?』 最後のは、自分の声だった 僕はペンを置いた。 それから ただ時だけがすぎ、僕はまだ50代ではあったが、生活習慣病が重症化し、そろそろくたばろうとしていた もっとはやく書くのをやめていたら 健康に気を使えていただろうか まったく、無駄な時間を過ごしたものだ 最近は細かい字を見るのもペンを握るのも億劫になり、自分はなにがたのしくてあんなに書き続けていたんだろうと 手のひらを眺める日々だった。 追いかけつづけた夢は ただただ虚空なもので 誰に読まれるでもなく、埋もれて消えていく。 それは自分の人生そのものだった 目を閉じる ああ、でも、くやしいことに キラキラした世界を もっと書けばよかったって まだこんなに色々な物語が自分の中にあるのに せめて自分だけは 自分の夢を…… そう思った直後 脳内の妄想すらも、そこで途絶えた ◆ 男の死後、インフルエンサーがそのマイナーな小説を取り上げたところ、多くの人が反応した。 書籍化が決定し、本は瞬く間に売れた 彼の両親は、周囲の人々は、口々に語る 『ずっと小説書いてたんですよ 夢がかなってよかったとおもいます いやね、才能あると思ってたんですよ』 『私の彼だったんです ほんと、ずっと彼の小説が好きで やっぱ周りとは違うっていうか引き込む力があるんですよね!』 『最高でした!もう何度も泣きました!』 『晩年の彼は書くのをやめてしまいました 一体なにがあったんでしょうか』 教授のすすめで読書課題になったその本を買った少年は 作者の気持ちを答えよ の回答にこう書き残す 「生前に売れたかった、じゃないでしょうか」 当然、教授は回答にバツをつけたそうだ。 end
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