優しい人

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優しい人

「お待たせ。楓君待った?久しぶりだね。元気そうで良かった。」 そう言って僕に声を掛けて来たのは茂人さんだ。大学4年生の茂人さんは知り合ってから一年と数ヶ月になる。僕は慌てて首を振ってにっこり微笑んだ。そんな僕に茂人さんは少し困った様に微笑んで言った。 「今日は何処に行こうか。行きたいところある?」 僕は今日は水族館へ行くつもりで、チケットも取ってあった。その事を言うと茂人さんは目を輝かせて喜んだ。 「本当に!?やった。俺水族館とか大好きなんだ。楓君と一緒に行けるとか、ご褒美でしかないんだけど!」 そう言って分かりやすくアピールしてくれる茂人さんに、僕はいつもほっこりしてしまう。僕が茂人さんに会う様になってから、一年以上経った今、僕は今日こそ伝えたい事があった。でも、それはこの関係が終わる事になってしまうので、今まで踏ん切りがつかなかったんだ。 歩いて水族館へと向かいながら、僕たちはたわいもない話をして、ただ笑い合った。優しげな茂人さんは、口下手な僕が心許して話せる数少ない相手だった。 「…俺は嬉しいけど、楓君は高いお金を払って俺と会ってくれてるでしょ。ずっとなんか申し訳ないなって思ってたんだ。ほら、女の子みたいに手を繋いだりとか、そう言う事出来ないから。楓君に出来るサービスって何があるかなって。」 僕は現実を思い出させた茂人さんに、少し恨めしい気持ちで言った。 「別に僕が好きで茂人さんとこうやって会って貰ってるんですから、茂人さんは気にしなくて良いですよ。」 そう言うと、茂人さんは口をキュっと結んで、それから困った様な表情で微笑んで言った。 「…そう?でも今日はちょっとサービスしちゃおうかな?日頃の御愛顧も兼ねて。ね?」 そう言って、目を光らせた。僕はやっぱり茂人さんはそんな顔も出来るんだなと、ぼんやりと全然関係ない事を考えてしまった。 「…ふふ。俺の手練手管も楓君には効かなさそうだなぁ。」 そう言って楽しそうに笑った茂人さんに釣られて笑いながら、今日で最後になるかもしれないこの関係を味わった。男二人で水族館なんてどうかなと思ったけれど、さすがの茂人さんのエスコートぶりもあって、僕は笑っていない時がないくらい楽しい時間を過ごした。 僕はもう大丈夫だと決心がついた。何度も先延ばしにして来たけれど、僕もすっかり最初に会ったあの頃の独りぼっちの僕ではなかったし、茂人さんはもうすぐ大学を卒業するから、きっと登録も解除してしまうだろう。茂人さんの居ないサイトを詮索するのは、あまりにも寂しい気がしたんだ。 僕は一緒に食べる夕食を噛み締めながら、茂人さんに話をする機会を覗った。けれども茂人さんは、僕が改まって話をする機会をくれなかった。茂人さんの楽しい話を聞くのは嬉しかったけれど、どちらかというと普段僕に話をさせる事が多い茂人さんには珍しい事だった。 もしかしてこれも一種のサービスなんだろうか。僕は戸惑いながら食事を終えて席を立つと、茂人さんの分も支払って店の外にでた。 「ご馳走様。美味しかったね。」 いつもの様ににこやかな茂人さんといつも通りならここで別れるところだけれど、まだ肝心な話を僕はしていない。ただの一顧客である僕が急に離れようと、茂人さんには関係がないかもしれないけれど、長らくお世話になったその時間を感謝して終わりたかった。 「あの、ちょっと話があるんですけど。」 僕が思い詰めた様に話し出すと、茂人さんは見たことのない険しい顔をして、目を逸らして言った。 「…いいよ。何処で話そうか。」 そう言って僕の方に向き直った時には、いつもの茂人さんだった。僕はさっきの険しい顔が見間違いだったのかとほっとして、茂人さんに連れられるまま、遊歩道へ向かって歩いて行った。 運河沿いの整備された遊歩道に流れる夜風は、まだ残暑の残る季節には心地よく感じて、僕はビルの明かりが水面をキラキラと弾くその光景に、無意識に口元を綻ばせた。 「気持ち良いですね、この場所。僕初めて来ました。都会にこんな場所があるとか、癒されます。」 川岸の銀色の欄干に寄りかかると、茂人さんは並んで水面を見ている僕に尋ねた。 「…話って何かな。」 街灯を背にした茂人さんのシルエットは、スタイルの良さを引き立てていた。僕はぼんやりとそれに見惚れながら、耳にかかる柔らかなパーマヘアの茂人さんの、いつもの優しげな瞳を見つめて言った。 「僕、もう茂人さんから卒業しようと思って。だから茂人さんを指名するのは今日でお終いにします。今までありがとうございました。」
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