悪渦(あっか)

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 爆弾低気圧――。  冬から春にかけて、蛇行したジェット気流が北で低気圧になり、南下。日本海の冷たく湿った空気を取り込んで、急速に気圧が下がり、大型台風並みの威力に発達する。激しい暴風雪を伴い、海上・陸上に甚大な被害をもたらすという。  酷い嵐だった。  ベランダ脇のパキラは倒れて、鉢から乾いた土が床に溢れ、ライムグリーンのラグの一部にまで飛んでいる。側のカーテンは引き裂かれたように破れ、無惨なボロ布と化している。温かなオレンジ色だから、無機質なガラス窓が覗く様は、なお寒々しい。  キッチンに目を向ければ、状況は更に悲惨だ。冷蔵庫の扉は半ば開いたまま――注意喚起の警告音がピーピーとやかましかったので、壁からコンセントを引き抜いた。ひとパック10個入りの鶏卵は、残っていた8個が掛け時計の下の壁紙(クロス)を黄色に染めている。その隣の壁、55型の液晶テレビの周辺には赤い液体が飛散し、画面中央には蜘蛛の巣が張ったような派手なひび割れ模様が広がる。真下の床にはトマトジュースの赤い水溜まりが出来、その中に液晶画面を砕いたガラス瓶が転がっている。一方、カウンターの上では、倒れた1リットルの牛乳パックから流れ落ちた白い滴が、まばらな雨だれを奏でている。  茶褐色に汚れた両手の甲をカーテンで拭うと、静佳(しずか)は暗い窓ガラスに映る能面のような女の顔を眺めた。鼻の辺りに、白いフワリとした塊が外側から張り付いてきたが、すぐに溶けて水滴になる。宵の頃、怪物の咆哮を彷彿とさせた雷鳴も、世界を打ちのめすような雨音も、今はもう聞こえない。雨から変わったミゾレすら、いつの間にか湿った雪礫になっていた。  彼女は、もう一度両手に視線を落とす。爪の縁にまで褐色の汚れは入り込んでいる。ピタピタと小さな足音を立てながら、キッチンに踏み入る。浄水器の着いた蛇口にグラスにをかざせば、冷たい水がちょうど一杯分だけ注がれる。コクコクと喉を鳴らして渇きを潤していく。口の端から一筋、細い流れが顎を伝い、赤い痕の残る首筋を舐めた。 「あ……んっ」  声を抑えても、背後からの愛撫には抗えない。先端から湯を滴らせる豊かな乳房を男は執拗に揉みしだく。単身者用の広くはないバスルームに、籠もったのは湯気か吐息か。別れ話の後の最後の1回だから、格別に感じるのかもしれない。彼もまた、惜別の想いを込めて抱いてくれている――そう思いたい。  フローラルの甘いボディーソープの香りがまだ幾らか残っている。劇薬のような快感に溺れたのは、ほんの数時間前。静佳は脱衣所の姿見の前に立ち、一糸纏わぬ自分の身体を眺める。首筋から鎖骨、胸いっぱいに散った赤い痕を指先でなぞる。決して奪われることのない優越感に、自然と口角が上がる。こんなに満たされたのは、どのくらい振りだろう。  曇りガラスのドアを開け、淡いグレーの珪藻土のタイルを踏む。スンと冷えたよそよそしさを洗い流すようにシャワー栓を捻る。湯の温度設定を42度に変える。少し温めが、あの人は好きだった。  静佳の白い肌は、すぐに桃色に染まった。彼の痕の輪郭が溶け、彼女の地肌とひとつになっていく。けれども、素肌の下まで潜り込んだ甘美な罪の墨滴は、どれほど熱い湯を浴びても決して流れ出すことはなかった。
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