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「いつから間違えたのか」と問えば、答えは「恐らく始めから」だ。
3歳下の悠佳に呼ばれ、久々に実家の敷居を跨いだ5年前。妹は、家族の食卓に魅力的な男性を同席させると、婚約者だと告げた。
あれも、嵐――青天の霹靂だった。灼熱の弓矢に心臓を射貫かれたような衝撃は、何事にも控え目で慎重だった静佳を少しずつ変えた。つまらない女の身体の奥底に、マグマ溜まりの如き熱源がうねっていることを、隼人と出会って気づかされた。好意を抱いてはいけない相手だと、心の中から閉め出そうとすればするほど面影は忍び込み、低い声は耳の奥を擽った。
『おねぇちゃん。まさか隼人のこと、好きになっていないよね?』
翌朝の出勤が早いことを理由に、静佳は実家に泊まらなかった。
それでも勘の鋭い悠佳は、その日の夜遅くに、LINEではなく、わざわざ電話をかけてきた。ビデオ通話にしろと迫るから、アプリの起動に手間取る振りをして、スキンケア用のフェイスパックを貼り付けてから、カメラの前に顔を晒した。
「どうして? あんたのパートナーでしょう」
『そうよ。だけど、彼を見て真っ赤になっていたじゃない。色目なんか使ったら、許さないからね』
妹は快活で気が強く、南国のハイビスカスみたいな女だ。地味で陰気、日陰に咲くドクダミみたいな私とは、まるで正反対。
「そこがいいんだよ……癒される」
アプローチは、彼からだった。悠佳との結婚式を半年後に控えた秋の宵、いきなり会社の外で待っていた。人肌が恋しくなりそうな、木枯らしの冷たい夜だった。彼は悠佳との結婚に悩んでいると打ち明けてきて……相談を口実に、その後も2人切りで食事する機会を重ねた。
「もっと早く静佳と出会いたかった」
誠実な男ではないと気づいていたけれど、妹に対して劣等感を持っていた私は、秘密の逢瀬にときめき、流されるまま深い関係にはまった。後にして思えば、隼人は初対面のときから、私の気持ちを見抜いていたのだろう。私は肉親を裏切りながら結婚を祝い、義弟との身体の関係を続けた。
『おねぇちゃん。あたし、妊娠したわ』
1週間前。悠佳は、誇らしげに報告してきた。
「……確かなの?」
仮面を装着してからビデオ通話に切り替えたけれど、声の震えは隠せなかった。そんな私を嘲るように、悠佳は余裕たっぷりに微笑んでみせた。
『確かよ。安定期に入って、順調に育っているから安心して』
「そう……オメデトウ」
凍てついた空気が胸の中に流れ込み、喜びの抑揚が上手く付けられない。不穏な気流が渦巻き始める。
『いいのよ、無理しなくても』
不敵な笑顔の中で、全てを見透かしたように、瞳だけが崩れない。
「……してないわ」
『近々、隼人がそっちに行くから。レンタルは終わりよ、おねぇちゃん』
「ゆぅ……――!」
強張った唇を動かせども、名前を呼び終わる前にビデオ通話は切られた。
『どういうこと?! どうしてあの子が知っているの!』
一睡も出来ないまま、翌日の昼休みまで堪えに堪えて、隼人にLINEした。
『金曜の夜、部屋に行く。全部話すから』
その返事を最後に、私からのLINEは既読スルー、電話も着拒になった。
あの日から、吹き込む北風が止まらない。それは日ごとに強く激しく……狂ったように心を荒らし、胸の気圧はグングン下がっていった。
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