悪渦(あっか)

2/5
前へ
/5ページ
次へ
 「いつから間違えたのか」と問えば、答えは「恐らく始めから」だ。  3歳下の悠佳(ゆうか)に呼ばれ、久々に実家の敷居を跨いだ5年前。妹は、家族の食卓に魅力的な男性を同席させると、婚約者だと告げた。  あれも、嵐――青天の霹靂だった。灼熱の弓矢に心臓を射貫かれたような衝撃は、何事にも控え目で慎重だった静佳を少しずつ変えた。つまらない女の身体の奥底に、マグマ溜まりの如き熱源がうねっていることを、隼人(はやと)と出会って気づかされた。好意を抱いてはいけない相手だと、心の中から閉め出そうとすればするほど面影は忍び込み、低い声は耳の奥を擽った。 『おねぇちゃん。まさか隼人のこと、好きになっていないよね?』  翌朝の出勤が早いことを理由に、静佳は実家に泊まらなかった。  それでも勘の鋭い悠佳は、その日の夜遅くに、LINEではなく、わざわざ電話をかけてきた。ビデオ通話にしろと迫るから、アプリの起動に手間取る振りをして、スキンケア用のフェイスパックを貼り付けてから、カメラの前に顔を晒した。 「どうして? あんたのパートナーでしょう」 『そうよ。だけど、彼を見て真っ赤になっていたじゃない。色目なんか使ったら、許さないからね』  妹は快活で気が強く、南国のハイビスカスみたいな女だ。地味で陰気、日陰に咲くドクダミみたいな私とは、まるで正反対。 「そこがいいんだよ……癒される」  アプローチは、彼からだった。悠佳との結婚式を半年後に控えた秋の宵、いきなり会社の外で待っていた。人肌が恋しくなりそうな、木枯らしの冷たい夜だった。彼は悠佳との結婚に悩んでいると打ち明けてきて……相談を口実に、その後も2人切りで食事する機会を重ねた。 「もっと早く静佳と出会いたかった」  誠実な男ではないと気づいていたけれど、妹に対して劣等感を持っていた私は、秘密の逢瀬にときめき、流されるまま深い関係にはまった。後にして思えば、隼人は初対面のときから、私の気持ちを見抜いていたのだろう。私は肉親を裏切りながら結婚を祝い、義弟との身体の関係を続けた。 『おねぇちゃん。あたし、妊娠したわ』  1週間前。悠佳は、誇らしげに報告してきた。 「……確かなの?」  仮面(フェイスパック)を装着してからビデオ通話に切り替えたけれど、声の震えは隠せなかった。そんな私を嘲るように、悠佳は余裕たっぷりに微笑んでみせた。 『確かよ。安定期に入って、順調に育っているから安心して』 「そう……オメデトウ」  凍てついた空気が胸の中に流れ込み、喜びの抑揚が上手く付けられない。不穏な気流が渦巻き始める。 『いいのよ、無理しなくても』  不敵な笑顔の中で、全てを見透かしたように、瞳だけが崩れない。 「……してないわ」 『近々、隼人がそっちに行くから。は終わりよ、おねぇちゃん』 「ゆぅ……――!」  強張った唇を動かせども、名前を呼び終わる前にビデオ通話は切られた。 『どういうこと?! どうしてあの子が知っているの!』  一睡も出来ないまま、翌日の昼休みまで堪えに堪えて、隼人にLINEした。 『金曜の夜、部屋に行く。全部話すから』  その返事を最後に、私からのLINEは既読スルー、電話も着拒になった。  あの日から、吹き込む北風が止まらない。それは日ごとに強く激しく……狂ったように心を荒らし、胸の気圧はグングン下がっていった。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加