悪渦(あっか)

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『全部、片付いた。これから帰るけど、なにか要る?』  浮気の帰りは、いつも通りのご機嫌伺い。LINEでを送ったのは、30分前だ。 『ハーゲンダッツのマダガスカルバニラを2個。ELLEの今月号があったら、それも』 『わかった』  素っ気ないやり取りを経て、コンビニに寄ってから、通りでタクシーを拾う。朝帰りではないものの、深夜23時を過ぎれば、彼女はベッドの中だろう。 「はぁ……」  明日は休みだとはいえ、あの荒れた家を片付けなくちゃいけないのは、気が重い。妊娠が分かってから、彼女は酷く不安定になり……苛立ちを周囲の物にぶつけるようになった。掛け時計もテレビも食器棚も、この半年で2度買い換えを余儀なくされた。  それでも愛想が尽きないのは、彼女の父親が勤め先の重役で、最低限のノルマをこなしていれば出世が約束されているからに他ならない。それだけだ。愛情なんか始めからない。一方的に惚れ込まれたのをいいことに、どれだけ派手に女遊びをしても、彼女は離婚を切り出さない。それどころか、浮気の翌日は、嫉妬に駆られるように激しく求めてくる。それが煩わしくて面倒だから、避妊を止めたら、思惑通りに子どもが出来た――。  抱かれなくなった彼女は、浮気相手と別れろと迫ってきた。自分と同じ禁欲生活を押しつけてくるなんて、馬鹿げている。けれど、将来の出世も、この楽な生活も失いたくないから、現時点で付き合っている浮気相手と切れることを約束した。ひとまず彼女が納得すればいいだけのことだ。子育てに気を取られるようになれば、また他の女を探せばいい。  マンションの前でタクシーを降りる。運転手の不審げな眼差しには気付いていたが、素知らぬふりをして。  シャクッ、とブーツの爪先がシャーベット状の薄い膜に沈んだ。雨上がりのアスファルトにミゾレが積もっている。天気予報通り、冬の嵐は雨から雪に変わるらしい。  カードタイプのキーでオートロックを解除し、8階に上がる。週末だけれど、この悪天候が味方したのか……およそ40世帯が暮らすマンション内で、他の住人に遭遇しないのはラッキーだ。  0802――カードキーを通せば、カチャリとドアの内部で音がした。ブーツのままズカズカと室内に進み、リビングのドアを押し開ける。  プンと生臭さが籠もっている。壁の照明を灯すと、室内の有様が飛び込んできた。裂けたカーテン、倒れた植木鉢、ひび割れたテレビ画面。臭いの元は、テレビ下の床に溜まる赤い液体とカウンター下に溢れた牛乳、それから壁を染める生卵か。、今しも台風が通過したと言わんばかりの惨状だ。
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