悪渦(あっか)

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「隼人……帰ったの?」  廊下の奥から、気怠げな声が聞こえた。コンビニ袋をソファーの上に放り投げて、廊下を進み――。 「隼人? えっ、おねぇっ、グウッ!」  仄暗い間接照明の中、一直線にベッドに近づく。もたげた頭を掴み、再び枕に押しつける。 「ひっ……あぐっ……」  ベッドの上に乗り、はねのけようと暴れる身体を跨ぎ、全身で押さえ込み――細い首に両手をかける。両目を見開き、口の端から泡の混じったよだれを垂らし、狂ったように足をばたつかせ、爪を立てて私の手の甲を搔きむしる。肌に食い込む痛みを堪え、なおも渾身の力をかけ続ける。 「ぁ……がっ、ぅぐぅ……」  こめかみに血管が浮き、血色を失った額に汗が噴き出し、金魚のようにパクパクと大きく開いた唇が震える。ギシギシと軋むベッドのスプリング音が、少しずつ、少しずつ小さくなっていく。  眼球が飛び出さんほど――いや、若干は飛び出していたのかもしれないが――白眼を向いた般若の形相で、悠佳は息絶えた。  私が着ている隼人のトレンチコートの袖の辺りに、赤い斑点が飛んでいる。搔きむしられた手の甲の皮膚が裂け、朱に染まっている。アドレナリンの興奮作用だろうか、痛覚は薄れて鈍い。 「……可哀想な子」  弾んだ息で吐き捨てて、ベッドから降りる。純白のシーツは、私のブーツが付けた泥と彼女の失禁で随分汚れてしまった。トレンチコートを脱いで亡骸を覆う。最愛の男の残り香に包まれて眠りにつく――それは彼女の本望だろう。 『これで、当分の間はお預けだな』   最後の情事(コト)を終えると、隼人はひとつふたつ息を吐き、私の上から離れた。ゴロリとベッドの中で仰向けになり、天井に視線を投げたまま頰を緩めた。 『当分、ねぇ……』 『大丈夫、別れるって言っても形だけだよ。ガキが生まれたら、また……な?』  彼は左手を伸ばしてくると、自分が付けたマーキングを指先でなぞり、私の肌を擽る。熱の引きかけた身体の奥が所在なく疼き、眉間にシワが走る。そんな様子を楽しんでいる――お気に入りの玩具を弄ぶように。 『そんなこと……あの子が、知っ……たら、大変でしょ……ぅんっ』  もう抱くつもりはないクセに。身を捩って背を向ける。隼人は低く笑った。 『アイツ、暴れるんだよ。ホント、ウザくてさ』  浮気をして帰ると、いつも決まってリビングが荒れている――ほんの半時前、私との別れ話を携えてきた彼は、共感を求める口調で愚痴を溢したのだった。  最初の頃は、夕食が食器ごと壁に投げつけられていた。それが段々エスカレートして、家電が犠牲になるようになった。愚かで哀れな我が妹は、彼に嫌われまいと、面と向かって文句を口にすることは決してなかった。彼の留守中に散々暴れ、彼が帰る頃にはベッドで不貞寝するというのに。 『それでも、あの子と別れるつもりはないんでしょ』 『まぁね。だけど、妻公認の浮気なんて、スリルはないよなぁ。君だってそうだろ?』  ポロリと溢れた――それが彼の本音で、私の真実だった。  ベッドのスプリングが揺れる。背後で、彼が身を起こし、帰り支度に移ろうとしている。静佳はゆっくり起き上がり、サイドテーブルの引き出しをそっと開けた。刃渡り18cmの三徳包丁が鈍く光を反射する。柄を両手で確り握る。ギッ、ギッ、と小さくベッドを軋ませて近づくと、完全に油断した広い背中の中央深くに突き立てた。  42度の熱いシャワーで、返り血を洗い流すと、静佳はスキニージーンズを履き、黒いハイネックセーターを被り、隼人のグレーのトレンチコートに袖を通した。彼のスマホのLINEには、毎回浮気の帰りに悠佳に送っていたが残されていた。その文をなぞらえて、静佳はメッセージをタップした。 『全部、片付いた。これから帰るけど、なにか要る?』
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