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ナナシは目を細めると、両手を広げるが──途中で自分が返り血を浴びていることに気づく。上衣や袴にこびりついた血の匂いに、乾いた赤黒い色を見て抱擁を求めたことを後悔しているようだった。
どんな綺麗事を並べても、自分は人殺しだと思ったのだろう。
「姫さん、やっぱり──」
ナナシの制止を無視して私は抱き着いた。
服が汚れるだとか、そういうことは一切考えていない。ギュッ、と抱きしめられる温もりに、ナナシは困惑する。
「おいおい、姫さん。服が汚れるだろう?」
「そんなの関係ないわ。どうせすぐに着替えるもの」
「……藍紗」
「ふふ。ナナシが名前を呼ぶなんて珍しいわね」
「今日は頑張ったんだ。少しぐらい褒美をもらったっていいだろう」
ナナシは私の背中に手をまわして、そっと抱きしめてくれた。伯父様やローワンとはまた違うけれど、妙に安心する。
「褒美……。そうね、ナナシもいっぱい頑張ってくれたんだもの。頑張って交渉してみるけれど、なにがいいかしら?」
ナナシは破顔する。彼にとっては私との抱擁が、一番の褒美だと言わんばかりの顔だったが──。
「そうさな。欲張って姫さんに帝都を案内してもらうのはどうだ?」
「そんなのでいいの?」
「そんなのがいいのさ」
特別じゃない。
ごく自然で当たり前の願いをナナシは望んだ。
「わかったわ。じゃあ、ナナシは三番目ね」
「三番目?」
「そう。ルークとデートするって約束しているし、ロロとも今回のが終わったら街に買い物に行くって話したから、ナナシは三番目」
「なるほど。姫さんは相変わらずモテモテなのだな」
「むう。せっかく名前で呼んでくれたのだから、アイシャでいいわ」
「ぬ? あー、雇い主を呼び捨てするのは……」
目を泳がせるナナシに私は「じゃあ、一緒に買い物行くときは呼び捨てね」と約束を取り付けてしまった。ナナシは「本当に、姫さんには敵わない」と片手に手を当てて笑っていた。
頬から涙が流れていたような気がしたが、私の見間違えだろうか。
「狡いではないですか!? いつの間に……」
(レオンハルトは買い物とかデートなんて習慣がないものね……)
「むしろ今まで一番チャンスがあったのに、なぜ誘っていないんだ?」とルークは呟いていたが、私は苦笑いするしかなかった。
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