2 ケダモノのアイドルはふにゃりと笑う

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 まあ。珍しい反応ではない。  貴志狼は、思う。大抵の人間は、貴志狼の額の傷と襟元から覗く刺青を見れば言葉を失う。青年の視線もちょうど襟元のあたりを彷徨っている。だから、自分を見た青年の反応に驚きはなかった。 『…あ。えと。あの。だ…大丈夫ですか?』  しかし、青年の言葉は、貴志狼の想像したものとはまったく違った。 『は?』  思わず、貴志狼は間の抜けた返事を返す。大丈夫ですか? の意図がわからない。 『あ。いや。その。なんだか、体調? が、悪そうに見えたから…えと』  しどろもどろになりながら、青年が言った。  もちろん、貴志狼の健康状態は全く問題がない。いたって健康体だ。どちらかというと、元気がないのは葉だ。  と、そこまで考えて、貴志狼ははっとした。そういえば、葉は体調が悪そうにしていた。事故以来、冬には体調を壊すことが多くて、貴志狼はいつも心配ばかりしている。  お茶屋はともなくとして、カフェはやめろと忠告をしても聞かない。一体何時からそんなものに興味を持ったのかわからないのだが、ほぼ意地になってスイーツ作りに没頭しているように、貴志狼からは見えた。 『別にどこも悪くはない』  言ってから、ああ。きつい言い方をしてしまった。と、少し後悔する。少なくとも、葉も鈴も猫たちも、大量に押しかけてくる女性客とは明らかに違う扱いをしているこの人物は、恐らくこの店の常連か、葉や鈴の友人なのだろう。  けれど、閉店の邪魔をされたのは間違いない。だから、女性客と同じように自分にビビッて帰ってくれればと、貴志狼は思っていた。 『はあ…。そうですか。それなら…あれ? 風祭さん』  しかし、貴志狼の思惑に反して、しばらくじっと貴志狼を見てから、青年は葉に視線を移した。何故だろうか、その瞳の色が淡く紫がかって見える。 『もしかして、体調。悪いですか? すみません。変なとこに来ちゃったかな? もう、店閉めるとこだったんですよね?』  人の良さそうに見える外見のままの性格なのだろう。申し訳無さそうな顔をして、青年が言う。 『いいんだよ。池井君なら、この子たちも喜んでるし』  葉はそう言っているけれど、顔色の悪さは隠せてはいなかった。 『大丈夫ですよ。今日は帰ります。  あ、これ。風祭さんが探してた岸田一成の小説。図書館の本じゃないけど、小柏さんが持ってたんで、借りました。返すのはいつでもいいそうです』  また、あのふにゃり。と、した。笑顔を浮かべて青年が言う。その笑顔に葉も笑顔になる。ごくごく普通の青年は、周りまで巻き込んで、ほのぼのさせる才能の持ち主らしい。  自分とは真逆の生き物だな。  と、貴志狼は思う。  少なくても、葉の友人としては合格点だ。 『じゃあ、鈴ももう今日はいいから、池井君と帰んなよ』  葉の言葉に、今度は鈴がぱ。と、明るい表情を浮かべる。 『あ。や。いいですよ。鈴君いないと、風祭さんが片付けしないといけないんでしょう?』  今度は青年の言葉に鈴の表情が寂しそうになる。  青年の言葉だけで一喜一憂する鈴は、正直面白いと貴志狼は思う。いつものすました顔の鈴より人間臭くて好感がもてた。 『ああ。いいよいいよ。シロいるから、手伝わせる』  笑顔で聞き捨てならないことを言う葉をぎろり。と、睨むけれど、涼しい顔で受け流される。どんなにすごんでも葉が、他の連中と同じように貴志狼を恐れることなんてありえない。葉は貴志狼が自分にとって絶対に安全な相手だと気を許しているし、貴志狼はそうなるように努力を惜しんだこともない。  最終的には、葉の言ったことがどんなに理不尽でも貴志狼は従う。それが二人の関係だった。  だから、ため息をついて両手を降参というように上げると、葉は嬉しそうに笑った。 『あ。そうだ。今日の抹茶のガトーショコラと、イチゴ大福余ってるから、お兄さんとおばあちゃんにも、お土産に持ってって。池井君、ほうじ茶の好きだけど、今日は終わっちゃったんだ』  そう言って、葉が奥の冷蔵庫向かおうとして、よろける。不自由な足がもつれたようだ。何も言わずに貴志狼が手を差し出すと、その顔を見上げてから、葉は素直にその手に従う。そのまま、貴志狼に手を引かれて、葉はカウンターの奥に入っていった。
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