1 緑風堂の番犬

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1 緑風堂の番犬

 緑風堂は今日も賑わっていた。決して多くないテーブル席は満席で、今日は表の待合席に二組の女性グループが座っている。少し暖かくなってきたとはいえ、まだまだ吹き抜ける風は冷たい。それなのに、彼女たちは全く気にはしていない様子で、小さな窓から、中の様子を窺ったりしていた。  土曜日の午後五時過ぎ。  このところ、この風景が完全に定着している。平日はそうでもないのだが、休日の夕方は毎回こんな感じになっていた。  もともとは、お茶屋であったため、カフェは本業ではない。お茶屋の常連客にお茶の試飲と一緒に店主が趣味で作ったスイーツを振舞っていたら、ただで食べるのが申し訳ないと客の方から言い出し、金銭を払うようになった。それを、見ていた一見の客が”自分も”ということになって、今に至る。  それでも、本当に知る人ぞ知る店だったのだが、店主の従弟の大学生がバイトに入るに至って、めでたく(店主は全くありがたがっていないのだが)人気店となったのだ。というのも、店主の従弟が世界遺産級(言い過ぎ:鈴談)のイケメンだったからである。  けれど、そんな一過性の人気などすぐに廃れて静かになるだろうという、店主の目論見は完全に外れてしまった。  緑風堂の和スイーツはかなり高レベルだったからだ。鈴目当てで来た客がその味に魅了されて、常連になる。その流れが完全に出来上がってしまっていた。  甘さ控えめで、素材の味を生かした日替わり3種のスイーツは店主・風祭の手作りだ。彼は別にパティシエの技術をどこぞの名店で学んだわけではない。彼が甘味を作り始めたのには訳があった。 『今日、ほうじ茶のチーズケーキと、抹茶のガトーショコラと、イチゴ大福だって、どれにする?』  寒空の下、ドアの前に置いた手書きの黒板のメニューを見て、三人組の女性客の一人が言う。 『私、ガトーショコラがいいな』  こんな季節にそれは正解なの?と、聞きたくなるようなミニスカートの女性は吐く息を白くさせながら答えた。随分日が長くなったとはいえ、もう、夕暮れ時。屋外では完全に冬の寒さだ。 『えー。私もガトーショコラにしようと思ってたのに。イチゴ大福にしなよ。それで、一口味見させて』  三人目の女性が言うと、ミニスカートの女性がそれに抗議して歓声が上がる。 『お待ちのお客様』  声をかけられて、三人は一斉にそちらに視線を向けた。この店の店員・北島鈴がどんな容姿をした人物なのか知っていたからだ。普段、鈴の方から声をかけてくれることなんて殆どない。何回か来たことのある客なら、それも知っている。だから、その声に彼女たちが色めき立ったのも無理はない。  しかし、その表情は声をかけてきた人物を見て一変する。 『まだお時間かかりますので、こちらをどうぞ』  トレイに載った温かいほうじ茶を差し出しているのは、彼女たちが待ち望んでいた人物ではない。  長身なのは、鈴と同じだ。けれど、ごついという言葉が当てはまるほどではないが、何か格闘技の類を修めているだろうことが想像できるような鍛え上げられた身体は、明らかに鈴よりもがっしりとしている。  鈴と同じく黒シャツに黒ボトム。カフェエプロンといういで立ちで、そこだけ見れば特に問題はない。けれど、しっかり止めたシャツの首筋から、僅かに炎のような図柄が覗いている。  顔立ちはむしろ品がある。堀の深い二重でどちらかと言えば整った顔立ちだ。しかし、左の生え際から瞼の上にかけての傷と鋭すぎる眼光が彼の印象を”その筋の人”にしてしまっていた。 『え。あ…え?』  その大男がにこりともせずに差し出すお茶を一般の女性が笑って受け取れるものだろうか。 『あ。私、用事あったんだ。か…帰ろ?』  三人組の一人が焦ったようにそう言って、あとの二人を引っ張って帰っていく。15分ほど並んで、もうすぐ順番だというのに、彼女たちは振り返りもせずに小走りで帰っていった。 『…次のお客様こちら…』  待合席を詰めるように勧めようとした彼の視線に、ひい。と、小さく悲鳴をあげて次の客も走り去った。そうして、店の前は静かになったのだった。
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