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5 お嬢さんへの玉露
『は?』
葉の驚きの声には、緑と紅の声も被った。もちろん、葉以外の声は、翔悟には聞こえていない。
『あれ? 聞いてないっすか? 明後日、アニキの婚約者候補のお嬢が来るらしいんっす。よくわかんねっすけど、すんげー美人らしっすよ?』
翔悟の言葉に爪先が冷たくなってくるのを感じる。息をするのが苦しい。
『お見合い。シロ結婚するの?』
聞いてから、自分の中にいるもう一人の自分が、当たり前だろ。と、囁く。そうだった。当たり前だ。貴志狼は跡継ぎなんだから、いつかはこうなることは分かっていた。
『さあ? そこまでは…アニキモテるから、まだ遊びたいんじゃねーすか? てか、跡目になるって人は別に何人外で囲っても大丈夫か』
爪先からどんどんと足が冷たくなる。まるで凍っていくようだ。
葉は思う。
いや。幾重にも幾重にも鎖が巻きついて、重く冷たくなっていっているんだ。
これじゃあ、もう、歩けない。
『おい。翔悟。お前、勝手に俺のメモ持ち出したな』
不意に、からん。と、音がした。
それが、ドアベルの音だと気付くまでに数秒かかった。
『おう』
ドアを開けて入ってきたのは、貴志狼だった。貴志狼の首元にはいつもの鎖。けれど、貴志狼はその存在を知らない。貴志狼にはそういうものはまったく見えてはいない。
『アニキすんません。アニキ忙しそうだったから、俺、代わりに…』
言葉を聞き終わる前に、ごつ。と、鈍い音がして翔悟は頭の天辺を抑えて座り込んだ。貴志狼の拳骨が炸裂したからだ。
『お前のいいわけなんか、どうでもいい。メモどうした?』
頭を抱えたまま答えられずにカタカタと小刻みに震えて冷や汗を流している翔悟に、貴志狼は大きくため息をついた。それだけで、メモを失くしたことまでも理解したのだろう。
『確か…京都の…泉…??』
メモの内容を思い出そうとして、ぶつぶつ呟く。
『泉屋の玉露? お客様用によく買っていかれるやつだね』
壱狼は気分によって煎茶かほうじ茶を飲み分けているが、客用としては飲みやすい玉露を選ぶことが多い。だから、もし、貴志狼が来なかったとしても、翔悟にはそれを持たせたと思う。
けれど、そんなこと今はどうでもよかった。
『ああ。それだ』
さっきの翔悟の言葉が頭から離れない。
婚約者になる人を迎えるために、自分で最高級の茶葉を買いにくるの?
と、あとで考えると女々しいことを考える。考えてから、そんなことを考えたのがものすごく悪いことのように思えて、葉はきゅ。と、唇を噛んだ。
『ちょ…と、まってて。今、用意するよ』
歩き出そうとすると、足がもつれた。うまく歩けない。いや。この足は元からうまくなど歩けてはくれないのだ。今始まったことではない。貴志狼がいてくれたから、大丈夫だと過信していられただけだ。
『葉』
貴志狼の腕が横から伸びて、葉の行く先を遮った。
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