1 緑風堂の番犬

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『…貴志狼さん。お疲れ様です』  ドアの隙間からひょい。と、顔を出して、鈴が言う。顔は相変わらず何を考えているかよくわからない無表情だ。この大学生はちょっと引くくらいの美青年なのだが、感情が欠落したような無表情になるときが多々ある。それでも、店主の風祭葉には懐いているのか、バイトを頼まれて少し嫌そうな顔をしたくせに、女性にきゃーきゃー言われているのを無表情で(嫌がっているかどうかは謎だ)受け流していた。 『別になんもしてねぇ。勝手に帰っただけだ』  エプロンを外しながら、強面の男は答える。貴志狼と呼ばれたのは、川和貴志狼。店主の幼馴染で、近くに事務所があるとある反社会組織の構成員だ。と、言っても下っ端ではない。祖父が東日本でも有数の組織の既に上がいないクラスの重要人物。つまりは数百の下部組織を束ねる会長だ。 『貴志狼さんがいてくれるだけで充分っす』  貴志狼が放り投げたエプロンをたたみながら鈴は答える。 『葉さん、少しきついみたいなんで、客に帰ってほしかったんす』  ドアを開けて店内に入ると、まだ、二組の女性客が残っていたが、すでに帰り支度を始めている。  レジではすでに会計を済ませた客が店を後にしようとしているところだった。 『あ。シロ。ありがと』  レジに立つ葉が声をかけてくる。相変わらず線が細い。顔色が悪いのは店内の照明のせいだろうか。けれど、その顔色に反して、声は明るかった。 『シロがいてくれると助かるな』  ありがとうございます。と、レジを済ませた客にお礼を言ってから、葉が言った。  別に貴志狼はこの店にバイトをしに来ているわけではない。彼がしているのは、店主の葉が店を閉めたくなった時、客を追い払う役目だ。  もともと、この店には開店時間も閉店時間もない。いや、お茶屋としては開店時間も閉店時間も決まってはいる。しかし、カフェ。としてのこの店には営業時間がなかった。店主の気の向いたときが開店時間で、気が済んだたら閉める。そのスタンスのせいで、いつまでも客が切れずダラダラと店を空けていなければいけない日があった。そんなとき、貴志狼がいると、客を追い払う役を仰せつかるのだ。 『効果てきめんですよね』  もちろん、鈴もそのことをわかっている。  普通であれば、そんなことに利用されて怒るところなのかもしれない。けれど、貴志狼には怒る気はない。貴志狼には葉に対する負い目があるからだ。と、多分、彼らの関係を知る殆どのものが思っているだろう。 『ホント。助かる』  悪戯っぽく笑う葉。その笑顔が、貴志狼は好きだった。深い意味があるわけではない。ただ、子供の頃からその笑顔を見るためにできることは何でもしてきたし、これからもしていくことだと貴志狼は思う。  葉に望まれているうちは。  呟いた言葉は誰に聞かれることもなく消えていった。
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