6 十七夜の憂鬱・番犬の溜息

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 相変わらずのろのろと時間稼ぎのようにゆっくりと洗面所に入って、顔を洗う。鏡の中の男は目の下に隈を作って、顔色も肌色も最悪。髪はこれでもかというほど、好き勝手にあちらこちらを向いている。  それから、一目でわかるほど、目元が腫れていた。    こんなみっともない30手前の男のどこが気に入ったんだろう。  鏡に向かって口に出さずに問いかける。  昔から、何故か異性より同性に好かれる傾向が強いことは自覚していた。  スポーツの類はできなかったので、逞しいとは言い難いし、母親似の女顔で、美容院に行くのが面倒なので髪もずっと伸ばしたままだ。声も高めで、親の躾けのせいで言葉遣いもどちらかというと、丁寧だと思う。趣味はスイーツ作りとハーブを育てること。  女子だな。  と、葉自身、自分で思うことすらある。  同性からの好意は正直迷惑だ。だから、気付いてもすべて完全にスルーしてきた。でも、それは、あくまで迷惑であって、好かれたことへの嫌悪ではない。ただ、貴志狼に変に疑われたくない。というのが、葉の真意だった。  のそのそ、ブラシを髪にいれる。傷んでいるのか、きしきしと絡み合って、なかなかほどけてくれない。引っ張られた髪が痛くて、泣きたくなってくる。  いつもなら、貴志狼が。  と、考えてしまって、葉は俯いた。  晴興からの好意に気付いていて、それでも完全にスルーしなかったのは、彼がカフェの客であるということ、店や家屋の相続のことで彼に相談に乗ってもらっていたこと、それから、もう一つ理由があった。  洗面台の縁に手をかけたまま座り込む。不自由な方の足が酷く痛んで、立っていられなかった。 『僕がほしいのは…介護士でも、番犬でもないんだ』  声が震える。  葉は少しだけ、貴志狼に自分のことを見てほしかった。足に障害を負わされた被害者ではなく、一人の人間として。  晴興の態度や、葉との距離を見せつけて、葉が恋愛対象になるのだと、気付いてほしかった。簡単に言うなら、嫉妬してほしかった。 『ちゃんと…見て。シロ』  結局それも、全部失敗だった。  余計なことをしたせいで、完全に自分はアウトなのだと、気づかされただけだった。諦めなければいけない期限を早めただけだった。 『…も、これも…おわり…かな』  座り込んだ足元。黒い鎖に触れる。それは見た目のリアルさに反して触ることができない。完全に本物の見た目であるにもかかわらず、そこには何もないのだ。触ろうとしてもすり抜けて、葉の足首の骨ばった感触が伝わってくるだけだった。 『ごめん。貴志狼。もう。自由にしてあげるよ』  呟くと、ふ。と、足首に巻き付いていた鎖が消える。  それを見ているのものは誰もいない。けれど、見ていたとしても、誰も気付くことはなかっただろう。  二人を縛り続けた鎖は、こうして、消えたのだった。
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