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『事故の日のこと。覚えてる?』
葉の問いに貴志狼は頷く。忘れられるはずがない。何度も何度も夢にも見た。辛くて声を上げながら目覚めて、夢だったらと期待を何度も裏切られた。その日のことを忘れるはずがない。
『シロは覚えてないかもだけど。あの日。シロが家に遊びに来てさ。うちの母さんが、ホットケーキ作ってくれたんだ』
頬から手を離し、また、貴志狼の肩に身体を預ける葉。キスの後立ち止まっていたから、貴志狼も歩き始める。耳元を擽る葉の囁きは心地いい。静かに降る雪はその小さな声を邪魔することはなかった。
『僕もやりたいって、駄々こねて。やらせてもらったけど、ひっくり返すの失敗して、変な形になって。僕が拗ねてたら、シロがさ。美味いって言ってくれて。まん丸の満月よりかけていた方が好きだって言ってくれて。すごく…嬉しかった』
正直な話、そんなことがあったことを貴志狼は覚えてはいない。その後の事故のことが衝撃的すぎて、確か葉の家に遊びに行った帰り、離れがたくて途中まで葉が見送ってくれた日だったことは覚えているけれど、その前に何があったのかまでは記憶にはなかった。
『事故にあって。こんなふうになって。シロはいつもそばにいてくれたけど。いつも、心配そうな顔で、申し訳ないって顔で』
思えば、葉が事故の日のことを話すのは初めてかもしれない。
貴志狼は思う。
それが、事故の忌まわしい記憶を思い出したくないからだと思っていた。
『でも、僕は…シロが笑ってる顔が見たくて…。
杖とかつくと、すぐに来て”ごめん”って言う顔するから、使いたくなくて。できないことがあると、心配かけるから、できるだけできそうにないことには近づかないようにした。
映画とか。本当はもっと、シロと行きたかったけど、優先席とか使わないといけないと、シロが傷つくかなって。言えなかった』
また、しゃくりあげる声が大きくなる。泣いているのだと思うと、何かしてやりたくても、どうしていいかわからない。けれど、そんなふうに戸惑っていたことが、さらに葉を傷つけていたのだろうか。
『僕の足が動かないのは、シロせいじゃない。
僕はシロに償ってほしいわけでも、心配させたいわけでもない。
けど。どうしても、そばにはいてほしいから。僕が頑張って普通の人と同じようにできるようにしないとって思って。
でないと、シロは笑ってくれない。けど、頑張ってもうまくできない。うまくできたと思っても…シロは笑ってくれない…でも、笑ってほしい。
だから…』
そこで、葉は声を詰まらせた。もういいと、言ってやりたかったけれど、ここで葉の気持ちを聞かなければ、後悔する気がした。
『ホットケーキ。笑ってくれたの。シロの心からの笑顔。最後だったから。また、笑ってほしくて。カフェ始めた。
あんまり。甘いの好んで食べてはくれないから。試作って言えば、食べてくれるかなって思って』
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