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いや、気づいてはいた。気づかないはずがない。でも、考えないように抑え込んでいた。
『馬鹿野郎。そんながちがちにならなくても、なんもしない』
そう言って、軽く額を小突いてから、ニットのカーディガンのボタンを外す。
もちろん、何も感じないはずがない。こうしている今だって、心臓の音が、葉に聞こえてしまうのではないかと思うくらいに高鳴っている。でも、何もしないという言葉も嘘ではない。
葉を奪うのに、急くつもりもない。葉のそばで10年以上耐えてきた。いまさら、それがほんの少し先に延びることくらい何でもない。
『…なんも…しないの?』
と。そんな貴志狼の思いをすべて吹き飛ばしてしまうほどの破壊力を、葉の表情は持っていた。
小首を傾げ、少しだけ驚いたような、子供のような表情の葉。それなのに、泣きはらして赤く重く腫れた目元や、濡れて額に一筋張り付いた髪や、ニットの下の透けた白いシャツや、何かを請うように貴志狼の腕に触れた細く震える指先が、昨日までの葉とは全く別人のように見える。
『し…しねえつってんだろ』
カーディガンを脱がせて床に落とす。中に着ている白いシャツの首ものとボタンに手をかけると、無様にも指先が震えていた。
葉は気づいただろうか、気づかれたくない。やせ我慢だと言われても、大切にしたい。すくなくとも、足も手も上手く動かせない上に、凍えて震えている人を風呂に入れるなんて、”介護”そのものの名目でそのまま手を出して、あとで後悔したくない。
『…しないんだ』
呟いて、葉は、拗ねたような、残念そうな、寂しいような、それでいてどこかほっとしたような顔になった。その肩から着ていたシャツを落とす。ふる。と、肩を震わせたのが寒かったからなのか、別の意味があったのかわからない。けれど、そんな僅かな仕草でも、さっきの決意が一瞬で吹き飛びそうになる。シャツの下の身体があまりに綺麗だったから。
『しない』
だから、言い切ったのは、自分で自分を戒めるためだ。理性はさっきからフル稼働しているが、いつ暴走するかわかったものではない。そのくらいに、思いが通じ合ったばかりの人は魅力的だった。
露になった上半身が病的なほど白いのは寒さのせいだけではなくて、もともと葉が色白だからだ。葉の母親の話によると、どこぞの異国の血が混じっているらしい。
もちろん、女性のような身体の丸みも胸のふくらみもない。けれど、その己とはあまりに違う華奢な身体から、目が離せない。離せないのだけれど、離さないと自分が何をしでかしてしまうか、貴志狼本人にもわからなかった。
強制的に視線を引きはがして、見た先はさらに難関だ。ボトムのボタン。一瞬ためらってからそこに手をかける。葉は何も言わない。ただ、顔を赤くしたままじっと、貴志狼の指を凝視していた。
きっと、今度は手の震えに気付いているだろう。それでも、葉は何も言わなかった。
『ほら、掴まれ』
ボトムの前を寛げてから、肩に掴まらせて、それを足首まで落とす。
そこで、一瞬で、心臓の音が凍った。
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