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『ありがとうございました』
中から聞こえる葉の声は明るい。
その声にほっとする。
女性客はさっきもいた菫を訝しむように横目でちらちらと見ながら帰っていった。確かに、自分は今、完全に不審者だ。葉の明るい声も聞けたし、このまま帰ろう。
そう思って、また、入り口に背を向ける。
『おい』
そこで、背中から声をかけられた。
『はいっ』
びくっ。っと、大袈裟に身体を震わせて、菫は立ち止まる。この声は、葉ではない。でも、聞いたことがある。貴志狼の声だ。
けれど、振り返れない。振り返って、顔を、というよりも、その首を見るのが怖い。
『なんで入らねえんだ? 葉が心配している』
気づかれていた。ということに気付いて、また、びく。と。身体が強張る。もう、逃げられそうもない。
見たくはない。けれど、放っておくこともできないなら、確認したほうがいい。
『や。あの。今日は、来る予定じゃ…』
覚悟を決めて、菫は眼鏡を外した。その方がよく見える。それから、振り返って、そこで、菫は固まった。
『あ』
そこにあったのは、菫が先日見たものとはまったく違うものだった。
『あ。やっぱり、池井君。どうしたの? 入んなよ。今日の日替わり自信作だよ?』
ひょこ。と、貴志狼の隣から葉が顔を出す。その手には歩行補助用の杖が握られていた。
いや。そんなことよりも、葉の足に巻き付いていた鎖も、その姿を変えていた。
『ああ。これ? 最近寒いと動き悪くて。歳かな?』
葉を凝視している菫の視線を杖を見ていると勘違いしたのか、照れたように笑いながら、葉が言った。確かに、葉が杖をついているんは見たことがない。足を引きずりながらも頑なに自分で歩こうとしていた。
一体、どんな心境の変化なのだろう。それが、彼の足の鎖がなくなったことと、無関係とは思えなかった。
『中で話せ。寒い』
貴志狼が顎をしゃくって中へ促す。中には客の姿はなかった。
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