「声帯」

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「声帯」

 なんで、なにも言ってくれないの、と、彼女は俯いて呟いた。  掠れた声で、鼻をすすって、長時間正座をしていると言うのに脚を崩しもしない。  左右に垂れる長い黒髪が邪魔をしていて、どんな表情をしているのかまではわからなかったけれど、声の感じで泣き出しそうなのを耐えているのだろう、と予想はついた。  だからと言って、どんな言葉をかけてやれば良いのかだなんて、脳みその中の引き出しをいくら漁ったって出てきやしない。  俺は、いい加減に風呂に入って、パジャマに着替えてベッドに入りたい。  そう思うけれど、声に出すわけにはいかない。  それが本心だとしても、切なる願いだとしても、決して口にするわけにはいかない。  ふとももに乗せた手を、一度も動かしていない。  皮膚がじりじりとして来て、まさに無言の圧ってやつで、こめかみが痒くなる。  思わず指先を持って行こうとして、ハッとして重ねていた手の、上になっている方で下にある利き手を押さえつけた。  この空気も、真っ暗な部屋も、彼女と向かい合って同じく正座を貫いているこの状況も、全てに対して「しんどい」としか思えない。  「 な ん で … な にも、い って、く れ、な い … の !」  泣き落としの次は、ヒステリーを起こすことにしたようだ。  しかし、俺は知っている。  彼女の手札は、そう多くはないと言うことを。    叩いてきたり、鈍器で殴ってきたり、すがりついてきたり、皿を投げつけてきたり、激しく暴れだすことはない。  そもそも、立ち上がる気はなさそうだ。  寒いのか、胸元で交差させた腕で自分の肩を抱いている。  その仕草も、頬にかかる黒いカーテンが隠してしまっているので、確かにそうだ、とは言いきれなかったけれど。  どうして、どうして、言って、言って、言って。  繰り返される呪文のような戯言に、ツキン、と心臓に哀れみの痛みが走る。  だとしても、だ。  一言でも、慰めたり、許しを請うたり、逆ギレしたり、諭したり、とにかく意味のある言葉を彼女にかけても無駄なのだ。  また今日も、朝日が昇るまでこうしているつもりなのだろうか。  もう、さすがに慣れたな。  これだけの時間を正座で黙り込んでいられるだなんて、自分は案外、修行に向いているのかもしれない。  いっそ大人しく、以前相談した神主さんに言われた通り、紹介してくれると言っていた霊媒師の弟子になろう。  その方が良いのだろう。  睡眠不足が限界に達していたのか、自分の未来をあらぬ方へと決定してしまう。  だって彼女は、仕事の関係でこの県に引っ越してきた俺の元に、最初の日から現れた。  その後6回引っ越したが、6回とも同じ時間にやって来て、同じ行動を取っている。  部屋に憑いているわけではないのだ。  朝方から2時間だけ寝て、18時まで仕事をする日々は、すでに2年をこえている。  大学を出て地元に戻り、実家から通うことの出来る小さな会社に勤めていた頃が懐かしい。  じゅうぶん睡眠を摂ることが可能で、家族と会話を楽しみ、妹の作った弁当を持って出勤する。  ああ、帰りたいな。  「…、… 言、っ て … 」  怒り、を感じたあとは、感情の宿った念をぶつけて来なくなった。  落ち込んでいるような、寂しい響きだ。  こちらまで悲しくなりそうで、必死で般若心経を心中で唱えた。  少しでも効けば、と覚えたが、ところどころでつまずいてしまう。  眠気と疲労感で、記憶もかなり怪しくなっている。  とっくに気が付いていたことだと思う。  そう、彼女は幽霊で、多分俺に憑いている。  強い想いが残っていて成仏することが出来ず、存在に気がついた俺に何かを伝えようとして、こうやって付きまとってくるのだろう。  けれど、残念ながら扱える言葉はそう多くはないようで、セリフはいつも変わらない。  本当に言いたい言葉が、他にあるのだろう、と思えるのだけれど、波長だか、チャンネルだかが合わないと、理解することは不可能なのだと神主さんは言っていた。  ふと、彼女のスカートに包まれたふとももに、ひた、ひた、と雫が滴る。  これは、今までになかったパターンだ。  耳が痛くなるような静けさの中で、俺は驚き、彼女の黒い髪の内側を覗き込んだ。  「 い っ し ょに 来て え ぇ え ぇぇ 」  ゾクリとして、後ずさる。  まさか、彼女が顔を上げるだなんて思ってもみなかったからだ。  今までは、微動だにせず、朝日が昇れば姿が薄くなり、ふ、っと掻き消えるだけの存在だった。  冬なのに夏服の、白い半袖のブラウスに紺色のひざ下までの長さのスカートを履いている、中学生くらいの女の子だ。  真っ白で、驚くほど膨らんだ頬に、何重にも皺の寄った首、瞳は大きな空洞になっていて、だらだらと中から水が溢れている。  ああ、これじゃあ、すすっていた鼻水なんて出るわけがない。  こそげ落ちている、これは、溺れたのだろうか。  海か、河か、いや、きっと海だ。  ふじつぼが、割れているひたいから露出している頭蓋に、びっしりとくっついていた。  でも、海なんて。  海なんて、この内陸の土地には。  ありは、しないのに。  手首に、びしゃり、と、骨ののぞく脆く腐った少女の手のひらが絡みついた。  その、手の甲のブヨブヨとした肉が残っている部分に、火傷の痕だと思われる木の葉のような皮が、ふやけたようになってめくれ、ひらひらと踊っていた。  木の葉のような、皮が、ちぎれずに、まだ。  「…わかったよ」  行くか、彼女と。  俺は彼女に笑顔を向けると、はじめて返事をする。  潰れた声帯が紡ぐ音では判断が難しかったとは言え、悪かったよ。  ずっとずっと諦めがつかなかったんだ。  だから、両親が遺体のない葬式を行おうとするのを、引きとめていたけれど。  それが、良くなかったのかもしれないな。  白い半袖ブラウスは、赤いリボンをなくしたんだな。  紺色のひざ下までのスカートは、ウェストで巻くって短くしていたのが、元の長さになって、プリーツがのびてしまったのか。  良く見れば、ナナコの通っていた中学校の制服じゃないか。  故郷は、海沿いにある小さな町だ。  ナナコは、家事をしたがるやつだった。  俺が就職してからは、毎日スーツにアイロンをかけてくれたっけ。  火傷を、したんだよな。  はじめての時に、まだ、慣れていなくて。  真っ赤になった手の甲の、丸みのある三角形。  一緒に行くよ、と、もう一度答えてやろうとしたのに、声帯は震えなかった。  俺は、真実の無音の世界へ。  数年前の夏、行方不明になったきり居所がわからなくなっていた、可愛い可愛い妹のナナコと共に。  手を繋いで、旅立った。  … 会 いた か った、 お兄 ち ゃ ん …
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