29人が本棚に入れています
本棚に追加
「声帯」
なんで、なにも言ってくれないの、と、彼女は俯いて呟いた。
掠れた声で、鼻をすすって、長時間正座をしていると言うのに脚を崩しもしない。
左右に垂れる長い黒髪が邪魔をしていて、どんな表情をしているのかまではわからなかったけれど、声の感じで泣き出しそうなのを耐えているのだろう、と予想はついた。
だからと言って、どんな言葉をかけてやれば良いのかだなんて、脳みその中の引き出しをいくら漁ったって出てきやしない。
俺は、いい加減に風呂に入って、パジャマに着替えてベッドに入りたい。
そう思うけれど、声に出すわけにはいかない。
それが本心だとしても、切なる願いだとしても、決して口にするわけにはいかない。
ふとももに乗せた手を、一度も動かしていない。
皮膚がじりじりとして来て、まさに無言の圧ってやつで、こめかみが痒くなる。
思わず指先を持って行こうとして、ハッとして重ねていた手の、上になっている方で下にある利き手を押さえつけた。
この空気も、真っ暗な部屋も、彼女と向かい合って同じく正座を貫いているこの状況も、全てに対して「しんどい」としか思えない。
「 な ん で … な にも、い って、く れ、な い … の !」
泣き落としの次は、ヒステリーを起こすことにしたようだ。
しかし、俺は知っている。
彼女の手札は、そう多くはないと言うことを。
叩いてきたり、鈍器で殴ってきたり、すがりついてきたり、皿を投げつけてきたり、激しく暴れだすことはない。
そもそも、立ち上がる気はなさそうだ。
寒いのか、胸元で交差させた腕で自分の肩を抱いている。
その仕草も、頬にかかる黒いカーテンが隠してしまっているので、確かにそうだ、とは言いきれなかったけれど。
どうして、どうして、言って、言って、言って。
繰り返される呪文のような戯言に、ツキン、と心臓に哀れみの痛みが走る。
だとしても、だ。
一言でも、慰めたり、許しを請うたり、逆ギレしたり、諭したり、とにかく意味のある言葉を彼女にかけても無駄なのだ。
また今日も、朝日が昇るまでこうしているつもりなのだろうか。
もう、さすがに慣れたな。
これだけの時間を正座で黙り込んでいられるだなんて、自分は案外、修行に向いているのかもしれない。
いっそ大人しく、以前相談した神主さんに言われた通り、紹介してくれると言っていた霊媒師の弟子になろう。
その方が良いのだろう。
睡眠不足が限界に達していたのか、自分の未来をあらぬ方へと決定してしまう。
だって彼女は、仕事の関係でこの県に引っ越してきた俺の元に、最初の日から現れた。
その後6回引っ越したが、6回とも同じ時間にやって来て、同じ行動を取っている。
部屋に憑いているわけではないのだ。
朝方から2時間だけ寝て、18時まで仕事をする日々は、すでに2年をこえている。
大学を出て地元に戻り、実家から通うことの出来る小さな会社に勤めていた頃が懐かしい。
じゅうぶん睡眠を摂ることが可能で、家族と会話を楽しみ、妹の作った弁当を持って出勤する。
ああ、帰りたいな。
「…、… 言、っ て … 」
怒り、を感じたあとは、感情の宿った念をぶつけて来なくなった。
落ち込んでいるような、寂しい響きだ。
こちらまで悲しくなりそうで、必死で般若心経を心中で唱えた。
少しでも効けば、と覚えたが、ところどころでつまずいてしまう。
眠気と疲労感で、記憶もかなり怪しくなっている。
とっくに気が付いていたことだと思う。
そう、彼女は幽霊で、多分俺に憑いている。
強い想いが残っていて成仏することが出来ず、存在に気がついた俺に何かを伝えようとして、こうやって付きまとってくるのだろう。
けれど、残念ながら扱える言葉はそう多くはないようで、セリフはいつも変わらない。
本当に言いたい言葉が、他にあるのだろう、と思えるのだけれど、波長だか、チャンネルだかが合わないと、理解することは不可能なのだと神主さんは言っていた。
ふと、彼女のスカートに包まれたふとももに、ひた、ひた、と雫が滴る。
これは、今までになかったパターンだ。
耳が痛くなるような静けさの中で、俺は驚き、彼女の黒い髪の内側を覗き込んだ。
「 い っ し ょに 来て え ぇ え ぇぇ 」
ゾクリとして、後ずさる。
まさか、彼女が顔を上げるだなんて思ってもみなかったからだ。
今までは、微動だにせず、朝日が昇れば姿が薄くなり、ふ、っと掻き消えるだけの存在だった。
冬なのに夏服の、白い半袖のブラウスに紺色のひざ下までの長さのスカートを履いている、中学生くらいの女の子だ。
真っ白で、驚くほど膨らんだ頬に、何重にも皺の寄った首、瞳は大きな空洞になっていて、だらだらと中から水が溢れている。
ああ、これじゃあ、すすっていた鼻水なんて出るわけがない。
こそげ落ちている、これは、溺れたのだろうか。
海か、河か、いや、きっと海だ。
ふじつぼが、割れているひたいから露出している頭蓋に、びっしりとくっついていた。
でも、海なんて。
海なんて、この内陸の土地には。
ありは、しないのに。
手首に、びしゃり、と、骨ののぞく脆く腐った少女の手のひらが絡みついた。
その、手の甲のブヨブヨとした肉が残っている部分に、火傷の痕だと思われる木の葉のような皮が、ふやけたようになってめくれ、ひらひらと踊っていた。
木の葉のような、皮が、ちぎれずに、まだ。
「…わかったよ」
行くか、彼女と。
俺は彼女に笑顔を向けると、はじめて返事をする。
潰れた声帯が紡ぐ音では判断が難しかったとは言え、悪かったよ。
ずっとずっと諦めがつかなかったんだ。
だから、両親が遺体のない葬式を行おうとするのを、引きとめていたけれど。
それが、良くなかったのかもしれないな。
白い半袖ブラウスは、赤いリボンをなくしたんだな。
紺色のひざ下までのスカートは、ウェストで巻くって短くしていたのが、元の長さになって、プリーツがのびてしまったのか。
良く見れば、ナナコの通っていた中学校の制服じゃないか。
故郷は、海沿いにある小さな町だ。
ナナコは、家事をしたがるやつだった。
俺が就職してからは、毎日スーツにアイロンをかけてくれたっけ。
火傷を、したんだよな。
はじめての時に、まだ、慣れていなくて。
真っ赤になった手の甲の、丸みのある三角形。
一緒に行くよ、と、もう一度答えてやろうとしたのに、声帯は震えなかった。
俺は、真実の無音の世界へ。
数年前の夏、行方不明になったきり居所がわからなくなっていた、可愛い可愛い妹のナナコと共に。
手を繋いで、旅立った。
… 会 いた か った、 お兄 ち ゃ ん …
最初のコメントを投稿しよう!