3人が本棚に入れています
本棚に追加
温かさを感じられるようになった三月末の金曜日。
八潮和音はPCを睨みながら、慌ただしくキーボードと電卓を叩いていた。
経理にとって一番忙しい月末業務を乗り切るため、いつも以上に集中力を高めている。
「八潮さん。請求書の提出が遅れてごめんなさい。ココ、置いておきます!」
営業部の三浦が、バツが悪そうに資料を置いて行った。
「わかりました。次はなるべく、早めにお願いしますね。三浦さん」
少し嫌味を込めた口調で言ったものの、彼の憎めないキャラのせいか何故か和音は笑ってしまった。
その笑みを見た彼は遠くの方で手を合わせて謝っていた。
(さてと。仕事に戻らないと)
このままでは定時で上がれそうにないので、仕事のギアを一段階上げる。
その時、電話が鳴り響いたのだ。
事務所を見渡してみたが、生憎、誰も出てくれる雰囲気ではない。
不本意ではあるが、和音は急いで受話器を手に取る。
良い雰囲気を感じてもらえるよう声を準備し、自分の会社名を名乗ろうとした時だった。
突然静寂が訪れる。
まるで自分だけが世界から切り離されてしまったように、自分の声と周りの音が消えてしまったのだ。
(くっ。今日は、このタイミングで…)
和音は急いで電話を保留にし、デスクの上に大きな星のマークが施された小型の旗を掲げる。
そして、近くを通りかかった別のスタッフに身振り手振りで状況を伝えた。
同じ経理課で後輩の五木は、すぐさま状況を理解し、指でOKマークを描くと、和音の取り次いだ電話にすぐさま応じたのだった。
その電話が終わると、和音は先程の三浦と同じように手を合わせて礼を伝える。
(今日はこの忙しい時間に来たか)
和音はそんな事を想いながら、星印の旗に少し寂しそうな顔を浮かべながら触れるのだった。
これから一時間余り。
彼は音のない世界で過ごす事となる。
彼は両親の希望を込めた「音」にちなんだ名で人生を生きて行く事になった。
男三人兄弟の末っ子。
幼い頃から沢山の音に触れ、彼の感性は大らかで誰からも慕われる性格に育った。
女の子のような名に、思春期は思い悩んだ事もあったが、今では我ながら良い名前だなと思えるようになったのは色々と経験を重ねた賜物と言えよう。
そんな彼の人生は、突然の神様の悪戯により、大きく変動する。
和音が中学生になってすぐの事。
突然、授業中の先生の声やノートに文字が書かれる音、自分の声までもが全く聴こえなくなったのだ。
自分の身に何が起きたのか全く分からず、ただパニックになり、教室を飛び出して行った事は今でも鮮明に憶えている。
無音の世界に取り残された感覚は、彼の心に大きな恐怖を植え付けた。
静寂の中に居ると、どうしても過去を思い出してしまう。
和音は一呼吸置き、再びPCへ向かう。
キーボードを打つ音も、周りの音が聴こえなくても、自分がすべき事は全う出来る。
仕事の締め切りは待ってくれない。
音が戻る、その時までの辛抱だ。
周期的突発性難聴。
原因が分からない為、仮称の病名だ。
和音は一日の中で、約一時間強、音のない世界へ突き落とされる。
加えて、どの時間帯にそれが襲って来るか分からないし、何故、音が聴こえなくなるのか、また、数時間経つと音が戻って来るのかも、解明されていない。
対処療法もなく、彼は三十歳になった今日まで、この謎の病と闘ってきた。
本当は音に携わる仕事がしたかったが、今は音に左右されにくい、事務職を生業に据えた。
周りのスタッフも、彼の病を理解していて、仕事中に音が聴こえなくなった際は、あの旗を掲げると言うルールを考えてくれた。
本当に自分は恵まれているのだなと思える、素敵な職場なのだ。
それから約一時間後、彼はようやく音のある世界へと戻って来た。
まるでカセットテープの一時停止が急に再生されるように、突然乱暴に音が戻って来るのだ。
その瞬間は全身が震える程の強い衝撃に襲われ、倒れそうになる。
軽い眩暈に苛まれながらも、なんとか彼は仕事をやり終える事が出来た。
「八潮。大丈夫か?」
近くを通りかかった経理部長が彼に声をかける。
「はい。さっき、聴こえる様になったので」
和音は弱々しい声でそう言いながら、掲げた旗を静かに倒す。
「そうか。大変だったな」
「なんとか締め業務の目途が付きましたので、今日はこれで失礼します」
「お疲れ様。気を付けてな」
そう言って彼は、和音の肩をポンと叩く。
「本当にお前は良くやっている。自分のペースで進めば良い。慌てる必要は何もないんだからな」
「はい。ありがとうございます。部長」
和音は深く一礼してから、職場を後にするのだった。
外に出ると、春特有の優しい風が吹き、彼の髪や服を靡かせる。
街の喧騒すら、和音にとっては愛おしい。
電車がすぐ近くを通る音、車のクラクション、すれ違う人々の話し声。
街を彩る数多のメロディは、彼にとっては美しい楽譜に思えるのだ。
(今日は少しだけ、呑んで帰ろう)
彼はふと思い立ち、行きつけのお店へと足を向けた。
カランコロンと耳心地の良い音を響かせながら、和音は店の扉を開ける。
「いらっしゃい。おー、カズくん。お疲れ様!」
店の奥から渋いマスターの声が聴こえて来た。
此処は彼の行きつけのピアノバー。
店の名はラ・ショパン。
音楽好きとお酒好きが集まる隠れ家のような存在だ。
「突然すみません。今日、空いてますか?」
「勿論。いつもの場所にどうぞ。それに、今日は彼女も来てるよ?」
「彼女?」
和音が視線を変えると、カウンター席の奥の方で手をふる一人の女性が居る事に気が付く。
彼女はグラスを掲げながら笑顔でこちらを見ている。
和音は緊張の糸がプツリと切れたように笑みを見せると、ゆっくりと店の扉が閉まるのだった。
「ご無沙汰ですね。柳楽さん」
「ご無沙汰、じゃないわよ。来るのが遅い! 今日はとことん付き合って貰うからね」
「はい…」
和音はやれやれと思いながら、彼女の隣の席に座る。
彼女の名は柳楽優美。
このバーの近くにある音楽雑誌の出版社で働くバリバリのキャリアウーマンだ。
初めて挨拶を交わしたのは、このバーでたまたま席が隣だった時だ。
和音の二歳年上で、大人の妖艶な風格と豪快な性格を合わせ持った酒豪である。
まだ20時になったばかりなのに、彼女はもうすでに楽しそうである。
「呑み過ぎじゃないですか?」
「良いの。今日は仕事で嫌な事あったから、盛大にパーッとやりたいの」
「相変わらず大変そうで」
そんな話をしているとマスターが声を掛けて来た。
「カズくんはいつもので良いかい?」
「ええ。お願いします」
すぐにオーダーを依頼すると共に、優美が急に彼の耳を触った。
「ちょっ…。な、何ですか?」
「何でもない。ちょっと触りたくなっただけ」
「何それ」
「だって。和音くんの耳って不思議で素敵だから」
そう言って彼女は和音の顔を見つめる。
彼は思わず目を背けてしまった。
本当に酔っているのか、演技をしているのか分からないくらい吸い込まれそうな目をしている。
バーのBGMである、ピアノの美しい旋律が鳴り響く。
「今日はもう大丈夫なの?」
「お陰様で」
「そっか。お疲れ様」
優美は彼の耳の事を知る数少ない人だ。
彼の苦悩を良く理解しているし、その姿勢を尊敬もしていた。
そんなタイミングで、マスターが戻って来た。
「おまたせ。いつものキールね」
「ありがとうございます」
「あ、マスター。これと同じ奴、頂戴!」
優美は彼のグラスを指さしながら元気よく答えた。
「はいよ」
マスターの声に合わせて、和音は一口グラスを傾ける。
甘い風味が鼻から抜け、一瞬にして心地よい気分へと誘われる。
「それで。仕事で嫌な事って、何かあったんですか?」
和音はグラスを置き、改めて彼女の顔を見る。
「えっ、聞いてくれるの?」
「僕で良ければ何でもどうぞ」
それから彼女は和音に決壊したダムのように、澱みなく仕事の内容を話し続けた。大半は愚痴ではあるが、音楽について話す彼女の姿は生き生きとしていて、とても輝いて見えた。
時々それが眩し過ぎると感じてしまうのは、自分の心の何処かに未練があるのだろう。
だけど、この不自由があったからこそ、彼女やこのお店と出逢う事が出来た。
そう考えれば、悪くないな、と思えた。
ひとしきり、彼女のデトックスに付き合いながら、お酒が進むと。
「ねえ。和音くん。久し振りにピアノ、弾いてくれない?」
優美が赤い顔をしながらそう言った。
「えっ?」
戸惑う和音であったが、その話を聞きつけたマスターが歩み寄って来た。
「おっ。カズくんのピアノ、おじさん、聴きたいなぁ」
「マスター。急に白々しく言うの、やめて」
「そんな事言わずにさ。弾いてよぉ」
急に駄々っ子のようにごねるマスターの姿に和音は大きくため息を吐いた。
「わ、わかりましたよ。じゃあ、一曲だけね」
「わーい! 待ってました!」
そう言ってマスターが指を鳴らすと、バーの奥にあるステージ上のグランドピアノにスポットライトが当たった。
相変わらず用意周到である。
「和音くんの音、聴かせてもらうね」
優美の言葉に、彼は静かに頷くと共に、グラスのお酒を飲み干し、ピアノへと向かった。
バーに居る客は静まり返り、束の間、無音になった。
少しだけ緊張している和音の息遣いだけが響く。
それからすぐ、鍵盤の上に彼のスラリとした指が置かれた。
ゆっくりとした曲調から始まる。
彼の周りの空気が一瞬で穏やかになったように感じた。
ショパン作、ワルツ第九番変イ長調。
別名、別れのワルツ。
曲の合間には数オクターブの飛躍があったり、和音の美しい旋律が鳴り響く名曲である。
彼は幼い頃からワルツを好んで良く弾いていた。
何処か憂いを帯びた曲調が、彼の心を掴んで離さない。
音が聴こえない時間はいつも、数多のワルツの曲が彼の心の中で鳴り響いている。彼の寂しさを癒す様に。
そんな彼の魂の乗った音達は、優しさと儚さを帯びており、聴く者の心を揺さぶる。
ピアノを弾いているこの時間はやっぱり楽しいものだ。
生業には出来なかったけど、休みの日には、必ずピアノを弾く時間を設けている。
音に触れていたい。ただ、純粋にそれだけなのだ。
曲が静かに終わり、和音の指が鍵盤から離れた。
心が洗われるような音達に包まれた観客は束の間、静寂を噛み締める様に佇んでいた。
そしてすぐに、バーのあちこちから拍手が鳴り響いた。
皆の表情は晴れやかで、誰もが彼の音の虜になっていた。
和音は急に恥ずかしくなったのか、素早く一礼をして、自分の席へと帰って行った。
「カズくん、なかなか粋な曲を選んでくれたじゃないか」
「マスターへの感謝も込めて、弾かせてもらいましたよ」
そんな事を話しつつ、和音は視線を隣に居る優美に向けた。
そこにはグラスを握り締めたまま、ワンワン泣いている彼女の姿があった。
お酒の力も加わり、情緒が崩壊してしまったようだった。
「だ、大丈夫?」
「感動したよぉ。すっごく良かったよぉ。耳が幸せだよぉ」
純粋な感想が聴けて、和音は素直に嬉しさを感じ、笑みを見せた。
「優美さんがそう感じてくれたのなら、一生懸命、弾いて良かった」
「やっぱり、和音くんの奏でる音は素敵だよ」
そう言いながら、彼女は和音のグラスのお酒を飲み干したのだ。
「あ、ちょっと。それ、僕のお酒!」
「あー。滅茶苦茶、心に沁みたー」
優美はそう言ってすぐ、テーブルの上に突っ伏してしまったのだった。
「ハハハ。相変わらず呑むね。ユミちゃんは」
マスターはそう言いながら、そっと和音の前にカクテルグラスを置いたのだ。
「えっ?」
「あちらのお客さんから、カズくんに」
マスターが指さす方を見てみると、会計を済ませ、帰り支度をしている大人の余裕をみせる男性の姿があった。
男性は静かに会釈をし、バーを後にしていった。
「キミのピアノの音に感動したんだってさ」
「そんな事、初めて言われました…」
自分が誰かを感動させることが出来たなんてにわかに信じられなかった。
グラスに注がれたお酒の水面に自分の顔が映り込む。
その表情は何処か晴れやかだった。
静かに笑みを浮かべ、そっとお酒を含む。
いつも飲んでいるカクテルなのに、数倍美味しいと感じた。
それからあっと言う間に時間は流れ、終電の時間が迫る。
「マスター。僕、そろそろ帰ります」
「あ、もうこんな時間だったんだね。久し振りに会えたから、おじさん、嬉しかったよ」
「また近々来ます。あと…」
そんな彼の隣ではすっかり熟睡している優美の姿があった。
「もう少し寝かせておくよ。疲れていたみたいだし」
「よろしくお願いします、マスター」
そう言って、和音は帰り支度を整える。
「カズくんも無理しちゃ駄目だからね。困った事があったら、いつでもおいで」
「ありがとうございます。絶対にまた遊びに来ます」
和音は帰りがけ、優美の近くで歩み寄り、耳元で静かに声をかける。
「また一緒に呑みましょうね。優美さん」
優しい口調でそう言った後、軽く彼女の頭を撫でて、彼は店を後にするのだった。
その時、眠っている優美の口元が緩んだ事に、和音は気付いていなかった。
次の日。
和音はピアノの前で、呼吸を整えている。
休日の日課である、ピアノの練習だ。
本当はアップライトピアノを部屋に置きたいのだが、近所迷惑になると思い、ヘッドホンで音が楽しめる電子ピアノで我慢している。
楽譜を譜面台に置き、鍵盤に指を置く。
和音の指が動く度に、音がまるで洪水のように彼の耳に流れ込む。
毎回弾いている曲なのに、弾く度にその音色や雰囲気が変わるので、いつも新鮮な気持ちで向き合えるのはとても楽しい。
そして、二曲目に入ろうとした時だった。
突然別の世界に誘われたみたいに、彼の耳には全く音が聴こえなくなった。
今日はお昼前のこの時間に、あの静寂がやって来たようだ。
一瞬動きを止めたが、それでも和音はピアノを弾く事を止めない。
仮令、音が聴こえなくても彼の身体はその音達を憶えている。
自分にしか奏でる事も聴く事も出来ない純粋な音を、彼は心で噛み締める。
もしかしたら、このまま音が戻って来ないかもしれないと考えると夜も眠れない時がある。
音がない世界はやっぱり、余りにも寂し過ぎるから。
職場の皆との何気ない会話。
バーの心が和らぐ落ち着いた雰囲気とBGM。
そして、マスターや優美との楽しいやりとり。
それらは全て、音から成り立っているのだから。
和音は静かに指を止めた。
(もし、そうなったとしたら…)
心の中でそう呟いて、そっと天井を見つめる。
(僕はいつまでも静寂の中で自分だけのワルツを弾き続けるんだ。だから、寂しくなんかない…)
和音は今日も音のある世界に戻れる事を切に願いながら、無音の時を強く生き抜いて行くのだった。
最初のコメントを投稿しよう!