静寂の戦いへ

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 人生に於いて、予期せぬ戦いに遭遇してしまう確率とは、一体どれ程のものなのだろうか?   それは何の前触れもなく訪れ、容赦なく平穏な日常を奪ってゆく。ましてや、それが負けられない戦いとあらば、計り知れない程のプレッシャーと恐怖を感じることだろう。時として人生とは、こうも簡単に無慈悲な神によって地獄へと突き落とされるものなのだ。  図らずも、突如として負けられない戦いに挑むこととなってしまった俺は、閉じ込められた密室の中で、緊張から薄っすらと額に汗を滲ませた。  今朝方目覚めた時には、まさかこんな事態に(おちい)るとは予想もしていなかった。なんならいつもより目覚めの良い朝を迎えた俺は、朝食もそこそこに支度を整えると、午前6時丁度に自宅を出発した。  それはいつもとなんら変わらぬ日常で、何か特別なことをした覚えは一切ない。  一体、俺の何がいけなかったのだろうか? 一連の出来事を振り返ってみるも、全く心当たりがない。  やはりこれは、神によるほんの気紛れにすぎないのだろうか──? これまで真面目にちゃんと生きてきたというのに、これではあまりに無慈悲ではないか。  そのあまりの仕打ちと悔しさから、俺は苦悶の表情を浮かべるとゴクリと唾を飲み込んだ。  数えること、10勝11敗。負け越してはいるが、俺は今、微妙なラインに立たされている。  次の勝負にさえ勝つことができれば、とりあえずは同点にまで追いつくことができる。ここは、なんとしても勝利を収めておきたい。  なにより、平穏な日常を取り戻す為には、ここで負けるわけにはいかないのだ。  チラリと周りに視線を這わせてみれば、そこに見えてきたのは6人の男女。その内の1人はまだ幼い子供だとはいえ、決して(あなど)ることはできない。むしろ、時として子供の方が手強かったりもするのだ。  悪びれた素振りなど一切見せずに、衝撃的な台詞で人を簡単に地獄の底へと叩きつける。その姿は、まさに天使の皮を被った悪魔。純粋さとは、本当に恐ろしい。  外界と閉ざされた密室の中、この場に存在するのは俺を含めて7人の男女。  静寂だけがその場を支配する中、俺の周りは敵だらけ。その緊張感と恐怖からか、今にも悪臭が漂ってくるようだ。  このままでは、息が詰まって今にも死んでしまいそうだ。平穏な日常を取り戻す為、行動に移す他選択肢はない。  どうやら無意識のうちに息を止めていた俺は、それに気付くことなく覚悟を決めると、一世一代とばかりに勝負に挑んだ。 『……プゥゥゥ〜』  俺の意に反して、盛大に鳴り響いた音と異臭。   「このおじさん、今おならした〜!」  右隣にいる少年が、俺を指差しながら苦痛に顔を歪めて鼻をつまむ。  一気に地獄と化したエレベーター。その数秒後、扉が開いたと同時にそそくさとその場を立ち去った俺。背中に刺さる視線が痛いのは、きっと気のせいではない。  ──静寂の戦い“屁”。  10勝12敗。俺はまたしても負けられない戦いに敗北したのだ。  時刻は午前6時32分。こうして、俺の平穏な日常は脆くも崩れ去っていった。  
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