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卒園式
残業をして帰宅すると、リビングで夫が縫いものをしていた。
「おかえり。ごはん? お風呂?」
私が「ごはん」と言うと、エプロン姿の夫はキッチンに向かった。
手を洗い、寝室をのぞく。
ヒロトの寝顔にキスをすると、着替えてリビングに戻った。
テーブルには、ガスコンロの上に乗った一人用の土鍋がぐつぐつ音を立てていた。
さすが私の夫。
遅くなる日は、ヘルシーな料理にしてくれる。
私の夫は主夫だ。
色白で少し垂れ目の優しい顔で、よく気がついてマメな人だった。
料理も洗濯も掃除も器用にこなし、コミュニケーション能力も高く、近所の人や幼稚園のママたちにも気さくに話しかけるし、子どもの扱いもうまかった。
夫とは、マッチングアプリで出会った。
仕事人間の私は、主夫をしてくれる人を探した。
子どもを産む直前まで仕事をし、産むとすぐに復帰した。
不安なこともあったけれど、やってみたら何とかなった。
それもすべて引き受けてくれる夫のおかげだと思っている。
もし、マッチングアプリのない時代だったら、私は結婚も出産もしていなかっただろう。
条件に合う人を世界中から探せる。
便利な世の中になったものだ。
「何を縫ってるの?」
湯気の向こうで糸を引っ張る夫に話しかけた。
「ズボンの裾上げ。ヒロトの卒園式のね」
「もうそんな時期なのね」
実家の両親からランドセルが届いていたことを思い出しながら、子どもの卒園式を忘れていたことを反省した。
「平日だけど、どうする?」
私は、手帳とにらめっこした。
3月は年度末で忙しい。
しかし、息子の晴れ舞台。
分かってはいるけれど、4月には小学校の入学式がある。
どちらかと言えば小学校の入学式の方が重要ではないか?
いやいや、どちらが重要という話ではない。
ヒロトが一番大切に決まっている。
そう結論付けてもまだ迷っている私は母親失格なのではないかと落ち込んだ。
「無理しなくていいよ」
夫は優しい。
それに甘え過ぎてはいけない。
私はヒロトの母親だ。
手帳をパタンと閉じると、夫に向かって宣言した。
「行く! 絶対に行く!」
「そ、そうか」
メガネのふちを上げながら夫は苦笑いをした。
卒園式当日、眠い目をこすりながら起き上がった。
昨日も残業で、本当はお昼まで寝ていたいけれどそんな理由で卒園式を欠席だなんてあってはならない。
ヒロトは、ビシッとスーツを着こなしていた。
夫の裾上げは完璧で、オーダーメードのスーツみたいにヒロトの身体にぴったりだった。
「ママ、卒園式来るの?」
「もちろん」
幼稚園の行事があるとき、夫は当日まで私の参加をヒロトに知らせない。
ドタキャンの可能性を考えてのことだった。
入園式も、七夕まつりもお遊戯会も私は参加できなかった。
幼稚園の行事に参加するのは今回が初めてだということに気づき、私はまた反省するのだった。
幼稚園までの道中、夫は何人もの人に話しかけられていた。
近所のおばさん、ウォーキング中の老夫婦、パン屋のご主人、同じ幼稚園のママさん。
私は、どの人も知らなかった。
会社では堂々とプレゼンし、どんなお偉いさんにも臆することなく主張するのに、ここでは私はただの人見知りだった。
幼稚園に到着すると、ヒロトは走って友だちの所に行ってしまい、私は夫の後ろをついて歩いた。
園内にある桜の木は満開だった。
「ヒロトくんのスーツかっこいいですね。木村さんもビシッと決まってますよ」
若い女性が夫に話しかけた。
ほめられた夫は頭の後ろをかきながら照れた。
女性は夫の後ろの私に気づくと会釈をした。
「うちの奥さん」
夫が私を紹介したので、挨拶をすると次々とママさんたちが集まってきた。
「えっ! 木村さんの奥さん?」
「きれいな方」
「あっ、はじめまして。主人がいつもお世話に……」
言い終わらないうちに彼女たちは矢継ぎ早に夫にお世話になっているのはこっちだと主張した。
「こちらこそ、いつも木村さんにはお世話になりっぱなしで……」
「この前のランチも木村さんがおいしいお店を選んでくれて……」
ママさんたちの話は止まらなかった。
ママさんたちとランチを食べていたなんて知らなかった。
でも、よく考えたら逆の立場だったら私もママさんたちとランチをしていたはずだ。
それに夫はどちらかというとなよっとした感じの雰囲気なので、決してモテるわけではない。
彼女たちは夫のことを同性だと思っているようだった。
会社の女の子が、女子会の写真を見せてくれたとき、一人だけ男の子が混ざっていて、「女子会じゃないじゃない」と突っ込んだら、女子の中にいても違和感がない男子だから女子会なのだと話していたことを思い出した。
夫はそういうタイプだろう。
保護者たちが席に着き、袴姿の先生がマイクを持つと式が始まった。
子どもたちの入場に多くの親がカメラを構えた。
私も負けじと動画を回した。
入場する子どもの顔を一人ひとり確認しながらヒロトを探す。
ヒロトを見つけて顔をアップにしたら、別の子であることに気づいて、すぐに戻した。
そのあとすぐにヒロトを見つけてズームインしたら、また別の子だった。
しかも女の子とまちがえるなんて。
なんだかどの子も同じような顔をしている。
自分の息子の顔を見まちがえるなんて……少し仕事を減らそうかと反省した。
おじさんおばさんがみんな同じ顔に見えるように子どもも同じ顔に見えるのかもしれない。
「ヒロトのさくら組は最後だよ」
あたふたする私に気づいた夫が私の耳元でささやいた。
夫の言う通り最後の組にヒロトはいた。
ニコニコしながら堂々と歩いている。
ヒロトの顔をズームアップした。
色白で小柄で薄い顔だけれど、優しい表情は夫にそっくりだ。
しかもヒロトのスーツがパリッとしていて一番かっこいい。
思わず横にいる夫の顔を見た。
夫は、ニコニコ顔で息子を見守っている。
やっぱりこの人と結婚してよかった。
改めてそんなことを思った。
卒園証書を受け取るヒロトは立派だった。
少し前までは私が仕事に行くとき、ぎゃん泣きしていたのに。
いつのまにこんなに成長したのだろう。
ヒロトが生まれてからの数年間のことを思い出したら涙が出た。
他の保護者も同じなのだろう。
あちこちから鼻をすする音が聞こえた。
夫も涙ぐんでいた。
式が終わると、多くの人が園庭に集まり写真を撮っていた。
暖かな陽射しが降り注ぎ、子どもたちの目がキラキラと輝いている。
「さくら組のみんな集まって!」
先生が園内に響き渡る声で叫んだ。
ヒロトは、夫の手を振り払うと駆け足で先生の袴に飛び込んだ。
さくら組の子どもたちが桜の木の下に並ぶ。
同じような服装をした子どもたちは区別がつかないほど似ていた。
……何かがおかしい。
どの子も息子に見える。
色白で薄くて優しい顔立ちをしていて、雰囲気もみんな似ていた。
兄弟でもこんなに似ない。
それほどこのさくら組の園児たちはそっくりだった。
なんだか急に怖くなった。
夫の腕をつつき、小声で聞いた。
「なんだかおかしいと思わない?」
「何が?」
夫は、写真撮影をする子どもたちを見つめたままそう答えた。
「みんな同じ顔してる。怖いくらいに似ていると思わない?」
夫は、息子を見守る優しい表情のまま私の方を向いてこう言った。
「全員、僕の子どもだからね」
「はい、チーズ」
全員が同じ顔で並び、同じ笑顔でカメラを見ている。
あっけらかんと答える夫の横顔を見つめながら、私は言葉を失った。
「木村さーん」
若い女性が夫の腕をとり写真撮影の輪の中に夫を連れ込んだ。
夫の周りには、ママさんとその子どもたちが群がった。
「はい、チーズ」
生暖かい風が吹き、満開の桜の花びらがはらはらと散った。
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