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そのままの格好でしばらく止まっていた彼女が、再び鼻をすすった時、その湿度が増している気がして、私は途端に申し訳なくなった。
彼女は泣きたくなかったのだろう。
だから他人に囲まれた朝の満員電車の中で、音もなく映像だけを観ていた。
家では観たくなかったのかもしれない。
一人では観れなかったのかもしれない。
無関心な無言の大勢が、感情の濁流を堰き止め、彼女を現実に繋ぎ止めていたのかもしれない。
彼女はようやく、2枚目のティッシュを取り出して、丁寧に開いて二つ折りにし、マスクをずらして鼻をかんだ。
それを数回繰り返すと、鼻も目もすっかり乾いたようで、丸めたティッシュをスマホと反対のポケットに入れながら、小さく囁いた礼は、少し離れた席で降りる駅を確かめるサラリーマンの短い会話や後ろで爆音の音楽を聞く若者のイヤホンから漏れるシャカシャカという音に紛れて、私以外には届かなかったようだった。
私は少しだけ頭を傾ける仕草で答えた。
それっきり会話はなく、降りる駅に着いた彼女は、小さくお辞儀をして立ち去った。
静けさの中で佇んでいた。
彼女は夏を待ち望んでいるのだろうか。
私は永遠に来なくて良いと思っているのだが。
ふと思い出す。
花火大会は、毎年8月2日と3日。
スマホで確認すると、今年はどちらも平日で、普通に仕事がある。
少し。
残念だ。
終
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