最後の一枠

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 午後七時すぎの病院は静かだ。  診察時間はとうに終了しており、受付に寄ると、奥のエレベーターから五階に上がるように言われた。 「菜津希のこと、どうしているかって気にしていたよ。」  高校の陸上部の先輩だった宮村秋絵から連絡があったのは三日前の月曜日。一度会って話がしたい、そう言われてしまうと同じ市内に職場も自宅もある身としては、断わる理由を探すのが難しかった。 「あまり大きな声では言えないけど、最後になるかもしれないから、叶えてあげなよ。」  高校三年間のうち、特に後半はずっと苦しい時期を過ごした菜津希のことを、常に気にかけてくれた先輩の頼みとあっては仕方がなかった。 「会えていないのは…菅本だけか。あいつは今、元気にしているか?」  顧問だった前原透一は、二年半にわたる闘病生活の、おそらくは最終盤を走っているはずだった。 「来たか…。」  十三年ぶりに会う前原は、一見本人だと分からないくらい痩せていたが、ベッドから上半身を起こしてこちらを向いたとき、大きな目から放たれた眼光に、そこだけは変わっていないな、と菜津希は思った。 「菅本は、来てくれないかと思っていたよ。」  すでに苗字は「園田」に変わっていると伝えようかと思ったが、しなかった。 「ご無沙汰していました。具合は…?」  聞いたところで、良いわけがない、と返されると思ったが、それでも前原は少しだけ笑顔を作り、今日はわりと体調がいい、と答えた。 「今は、どうしているんだ?」 「四年前に結婚して仙台に行っていましたけど、今年から東京に戻ってきて家族と市内に住んでいます。先生のご様子は宮村先輩から聞きました。」  お見舞いが遅くなってすいません、と頭を下げた。 「いいんだ。お前らが皆、元気で暮らしているなら、それで。」  静かな口調だった。菜津希が高校生だった頃の、甲高い声で常に檄を飛ばしていた前原とは別人のような穏やかさだった。                ※※※ 「控えのメンバーとして中橋を連れていく。お前は外れてもらう。」  全国高校駅伝のメンバーエントリーの締切日前日、菜津希は誰もいない空き教室に一人呼ばれた。出場選手五人と補欠三人。計八名のエントリーメンバーの最後の一人が誰になるか、前原と二人のコーチとの間では最後まで決めかねている様子だった。 「直前のタイムトライアルでも菜津希の方が良かったし、中橋さんはレースごとに出来不出来があるから、大丈夫だと思うよ。」  主力でメンバー入りも確実な宮村はそう言って励ましてくれた。菜津希は同じ二年生の中橋友理奈と競わされていることは知っていたが、ここ最近の練習の出来やタイムで自分の方が上回っているにもかかわらずエントリーの内定が出ないのは、何か理由があるのではないかと感じていた。  結果、ぎりぎりでメンバー入りを掴み取り、都大路へ向かったのは、数字では上回ったはずのライバルだった。 「出走させる予定も無かったんですが、こんな状況になってしまったのでほとんど賭けと思って走らせました。本当によくやってくれたと思います。」  レースの前日に、区間登録したメンバー二人と補欠の一人がインフルエンザに罹患していることが発覚し、そのうち一人が将来のエース候補と言われていたアンカーの一年生だった。入賞はおろか、最後まで襷がつながればいいとさえ考えていたチーム状況の中、当日変更で出走せざるを得なくなった中橋友理奈は、コーチ曰く「良い時」の友理奈だった。四区を走る三年生から十二位で襷を受けると前を行くランナーを次々と追い抜き、最終的には五位でゴールに飛び込んだ。チーム史上初の入賞を果たすとともに友理奈本人も区間賞を獲得するという、誰もが予想しない快走劇だった。 「とにかく一つでも順位を上げようと必死で走りました。区間賞は…全然考えていなかったです。」  普段は口数も少なく目立たない存在だった友理奈の、見たことも無い笑顔がテレビに映し出される。それを菜津希は学校の視聴覚室で、メンバー外の部員たちと目にしていた。                ※※※ 「お前には謝らなければと、ずっと思っていた。」  そこから先の二人にとって、これ以上ない明確な分岐点となる出来事だったからだ。 「もういいですよ、それは…。それに先生たちの判断が正しかったことは、レースの結果や、その後の中橋さんの活躍が証明していますから。」  深いところに痛みが走る感触はあった。だが昔のことだ。もしかすると間もなく人生を終えるかもしれない人間に対して、その痛みを言葉にしてぶつけるつもりなど菜津希にあるはずも無かった。 「俺は、菅本をメンバーに入れるつもりだった。だが中橋を選んだ。正直、指導者としての眼力でそうしたわけではない。その理由も、堂々と説明できるようなものでは無かった。」  暖房の効いているはずの病室の温度が一瞬、下がったような気がした。                ※※※ 「補欠の三人は、三年生の高瀬、一年生の大倉、あと二年生の菅本と中橋は…甲乙つけがたいな。」  コーチを務める副顧問の谷本行彦が呟く。前原は紙面に打ち出された直近のタイムトライアルや練習での様子が記載されたデータをもう一度見直す。 「菅本…かなあ。」  それで行きますかね、と谷本が同意を示す。 「ええと…ちょっと待ってもらっていいですか?」  もう一人のコーチである隅田佑二が言葉を挟む。同校のOBで、実業団で選手として活動した経験もある、いわばプロのコーチだ。教員である前原と谷本にとって、隅田の助言はある意味絶対的な説得力を持っていた。最終判断が実質的に彼の意見によって何度もなされてきたという経緯もある。 「僕は…中橋がいいと思います。というか…。」  前原と谷本が、隅田の言葉を待って身を乗り出す。生徒がいなくなった教室。十二月を迎えた窓の外は既に陽が陰り、グラウンド脇に立つ木々の葉が風に舞うと時折二階の窓に当たってはどこかに流れてゆく。 「単純にタイムでは菅本の方に分がありますけど、何かそれ以外の理由でも…。」  谷本が沈黙を破る。前原もそれに続いて言葉を発する。 「性格的にも菅本は安定している。万が一の時でも最低限の走りはしてくれるという気もするが。」  そこから隅田は長い沈黙に入った。その後に発した告白に、前原と谷本は頭を抱えることになる。                ※※※ 「見られていたはずだ、そう隅田は言い張ったんだ。」  誰もいないはずの早朝。更衣室にカメラを仕掛けて出てきたとき友理奈とばったり出くわした。場所が入口前だったこともあり決定的な瞬間を見られたという確証は無かったが、それでも一瞬、友理奈が怪訝な表情を見せたことを、隅田は感じ取った。 「口止めのために京都に連れて行くというのか?」  前原は抑えた、しかし怒気を含んだ口調で隅田を問いただす。 「仕掛けたカメラは、その後どうしたんです?」  谷本がそれに続く。友理奈が去った後、他に誰もいないことを確認して撤去したという。 「本当に…出来心だったんです。申し訳ありません…。」  直前にメンバーを外された友理奈が、仕返しの意味で隅田の行為を告発する可能性は確かに無くはなかった。そうなれば隅田はコーチを解任される。彼の存在無くしては全国大会への出場など成し得なかったのも事実だ。エントリーメンバーの最後の一枠は、競技成績ではないところで、思わぬ難航を生むことになった。 「先に区間エントリーを決めてしまおう。」  重い空気を払しょくしようとして前原が言った。結論の出そうにない問題は最後に回し、本来議論すべき事項から先に決めてしまおうということだ。 「結果的に、最後の一枠は誰にも決められなかった。だから議論すら行われず、そのまま大会本部に提出された。」  中橋で…いいですか?  会議の最後に、隅田が遠慮がちに呟いた。前原も谷本も異は唱えなかった。その時点で補欠の三人目である友理奈が実際に出走する可能性は限りなく低かった。それは菜津希が入ったとて同じことだったろう。 「結果は知ってのとおり。隅田は都大路での五位入賞を置き土産に実業団チームのコーチのオファーを受けて転身。中橋はその後大学や実業団で競技を続け…今でも現役だ。」  国内のメジャーなマラソン大会で優勝のゴールテープを切る彼女の映像を見たことがある。高校時代の無口で控えめな彼女と同じ人物だとは、もはや思えなかった。   「中橋には何も罪は無い。あいつは与えられたチャンスを掴んで伸びていった。だが、お前にはすまないことをしたと、今でも思う。」  菜津希はその後、一度もレースに出場していない。メンバーを外れた悔しさからそれまで以上に強度の高い練習を継続した結果、二月の強化期間を前に左脚の疲労骨折が判明してひと月ほど競技を離れた。その間にライバルたちは記録を伸ばし、復帰した時にはもはやレギュラーを争うのが恥ずかしいほどの差を付けられていた。その後は左脚が治れば右脚、右脚が治れば今度は腰と、最終学年の大半を怪我の治療に費やすことになり、最後は練習にも参加しなくなった。  床をじっと見つめたあと、窓の外の暗闇に視線を移し、菜津希は口を開いた。ゆっくりと、一つ一つの言葉を重く踏みしめるように。 「中橋さんには能力があった…、私はいずれ故障で走れなくなっていた…、そういう話なんだと思います。それに、その時点での成績以外のところで何かが決まってしまうことは…世の中でも、よくある話だと、そう思うんです…。」  大学卒業後に勤めた一般企業で人事部に配属されたことがある。誰を昇格させ誰を落とすか、それが決まるのは会議の場に集まった出席者の、実にくだらない意見によることも、珍しくは無かったからだ。 「彼、ミーティングとかで見ていると、瞬きが多いんだよね。え? 仕事は真面目にこなす? 僕、落着きのない人間って、どこか嫌いでねえ…。」  結婚し、夫の仙台への転勤を機にその会社は退職し、東京に戻った現在、友人が経営するデザイン事務所の総務・経理担当として働いている。規模は小さいが気持の良い職場だ。  前原が、息を吐き出すように、言葉を発する。 「少しだけ肩の荷が下りた気はする…。だが今更こんなことを話して、教え子に許しを請うて…。俺は実に小さな人間なんだなって、こうなってから思う。」  その通りだと菜津希は思ったが、この期に及んで前原を責める気にはならない。気が強くて言いたいことを言う自分より、素直に助言に従うタイプの友理奈をコーチの隅田が気に入っていたことは薄々感づいていた。それで彼女が選ばれたと思っていたが、実情はもう少し複雑だったようだ。 「体調が良くなったら、またグラウンドに立ってください。十四年ぶりの都大路だって夢じゃないですよ。」  隅田が去ったあとチームは全国大会出場を果たせていない。前原も治療を優先して二年前から現場を離れている。谷本も他校に異動しており、すでに当時のスタッフは誰もいない。 「ありがとうな。このあと少し眠るよ…。」  そう言って前原は目を閉じた。菜津希は病室を出るときに、もう一度頭を下げた。これで最後になるのかな、と思ったが、不思議と寂しさは感じなかった。                ※※※  帰りのバスの中で、ちょっとだけ背中が寒くなったことを思い出した。  もう少しで、自分も告白しそうになった瞬間があったからだ。  大会が終わり、新チームが発足してすぐのことだった。その頃の菜津希は、メンバー入りを逃した悔しさから、誰よりもハードな練習メニューをこなそうと、周りから見れば近寄りがたい空気を纏っていたはずだ。練習には朝一番にやって来て、放課後は誰よりも遅くまでトラックを走る。無理しないで、と声を掛けることすら出来なかったと、同学年の部員から後で聞かされたこともある。  当然、その姿を隅田も見ていたはずだ。そしてその姿に何らかの恐怖を感じたとしたら、その後の行動にすべての合点がいく。  学校の正門から市道に出るまでの間に、百メートルほどの下り坂がある。そのちょうど中間あたりに屋根付きの駐輪場があり、練習が終わって帰宅する菜津希は、入口から自分の自転車の位置まで足を進めていた。  そこに隅田の姿があった。  生徒の自転車しか無いはずの駐輪場になぜ、彼がいるのか。  彼はしゃがんで、何百台と並ぶ自転車の一つに向かって何か作業をしているようだった。  菜津希は黙ってその姿を携帯のカメラに収めた。隅田がいたのは自分の自転車の前だったからだ。  菜津希の姿を目にした隅田は驚いて立ち上がろうとしたが、そのまま足をもつれさせ、不格好に尻餅をついた。 「いや、これは…。何でもない。何でもないんだ…。」  そこで何をしているんですか、やめてください…。  今考えれば、誰もいない夜の駐輪場で、大人の男性に対してずいぶん向こう見ずな勇気を発揮したものだと思う。菜津希の自転車に細工し怪我でも負わそうとしたのだろう。そんなことのできる人間を追い詰めたらどんな反撃を受けるか分からないのに、幸いその時の隅田は、逃げることしか考えられなかったようだ。  隅田がコーチを辞して学校を去ったのは、それからすぐのことだ。表向きは波風の立たない理由で。その結果チームは弱体化を余儀なくされたが、それはそれ、と菜津希は思う。    菜津希の自転車は前輪のスポークが何本か外され、ブレーキも緩められていた。  その時撮影した写真は、機種をいくつも変えた今でも、菜津希のスマホの中に保管されている。
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