私の彼はブッダ

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私の彼はブッダ 「彼は我を罵った。彼は我を害した…彼は我に打ち勝った…彼は我らから強奪した…という思いを抱く人には、ついに怨みがやむことがない… これどういう意味だと思う?さっちゃん」  まただ。夕飯を食べ終え、私が洗い物に取り掛かっている最中、正人は私に問う。実はこのやりとりは九日目を迎える。いつも私が何かに取り掛かっているときにそのタイミングがやってくるので、私の家事効率抑制週間、と密かに呼んでいた。 「えー、そのままの意味じゃなくてー? このやろーって思ってたら思ってる時点で、このやろーが収まることはないってことじゃなくてー?」  炊飯器に残った一合ほどのご飯をラップに包ませ、冷凍庫に投げ込みながら言った。 「さっちゃん鋭いねえ、さすが!」  パチパチパチ、と手を叩く音がして、二畳間ほど離れた正人の顔を見た。相変わらずパチパチパチとやたらゆっくりとしたリズムで手を叩いている。私に微笑を浮かべ、そして微かに頷いていた。 「何その顔」 「さっちゃんのことが誇らしくて」 「それはどうもありがとう」 「どういたしまして」  正人は家事にまだ追われる私をよそに、さてと、と言ってベッドに入っていくのがわかった。 「僕は先に休むね、さっちゃんあと少しファイトっ」  全く呑気な男で、全く自由を愛する男。そして僧侶でもなければ、住職でもないが、仏教の教えを日常的に織り交ぜてくる面倒くさい男。それが正人である。 私と彼の出会いは八年前になるが、恋仲になったのはつい一年前のことだ。  今や都内にある広告代理店の会社員になった正人と、近所の子供達に油絵を教える小さな教室で働く私は、土日の週末だけ一日中一緒にいることが出来た。  ある土曜の昼下がり。昨夜の雷雨がダラダラと続き、まだ夕方前の時刻だというのに、雨雲のせいでどんよりとした空模様だった。 「あー、せっかくの土曜日なのになー。」 「たまには雨の日の週末も好きだなあ。 ほら、ぽつぽつぽつ。」  正人はリビングの窓に耳を押しつけ、ぽつぽつぼつ、と嬉しそうに雨粒の音を聞いていた。目を閉じていると正人の長いまつ毛が微かに揺れているのがわかる。 時にこんな普通に、静寂と戯れる正人の姿には後光が差す。いや、厳密に言うと後光が差すのではないかというほどじっと座り、微笑むのだ。その姿を見ながら飲むコーヒーは格別だ。 この後光スタイル(私が名付けた)は、さまざまな場で出現する。 一度、いろいろな意味で印象に残った正人の後光スタイルがある。真夏の炎天下が見舞われる八月の京都に正人と出掛けたときだ。京丹波町という場に私たちは訪れた。美味しい栗や黒豆が食べられる京都府のほぼ中央部に位置する緑豊かな町だ。朝昼夜の寒暖差が激しく、昼にびっしょりとかいた汗も、夜になるとその汗で風邪をひいてしまいそうなほど肌寒くなったことを覚えている。 緑に囲まれている、広々とした素敵なコテージで二泊滞在した。 私は、正人との京丹波町旅行について、美味しいものをたくさん食べて、自然に癒され、夜になったらコテージで美味しいお酒を飲んで正人とゆっくりできる… そんな旅行計画を、行きの新幹線の中で一人、妄想に胸を膨らませていた。今考えると、旅行に対して煩悩の塊がむき出しすぎて恥ずかしくなる。 「さっちゃん、京丹波町は瞑想にもってこいな場のようだ、楽しみだね」 上機嫌に妄想をしている私の横で、駅弁を食べ終えた正人が話しかけてきた。 日頃から正人は瞑想を取り入れているらしかった。心を整え、無常を感じるための欠かせない行為だと、正人は話してくれた。 「旅行に来てまで瞑想やるのね、正人は」 「いつもと違う場所で瞑想できるなんて嬉しいよ」  そう言いながら、正人は嬉しそうな笑顔を浮かべて、京丹波町の観光サイトを眺めていた。  京都駅に到着し、そこからまた一時間半ほど移動して、日中の日差しが痛く肌に刺さる時間、京丹波町に私たちは降り立った。 「あつーい! 京都のなかでも涼しいとはいってもさすがに八月の日差しだね」  京都の八月の暑さに、私はすぐにバテててしまいそうだった。コテージのチェックインを初めに済ませてから、町に繰り出して涼しいものでも食べようと考えていた。 コテージについてチェックインを済ませ、お世話になる部屋を一通り見回って楽しんだ。三部屋しか客室のない宿は、窓を開けてもとても静かで、木々の葉が揺れる音と蝉の鳴き声が私たちの耳に一番に届く。素敵な宿の煩わしい唯一の欠点は、緑豊かな分、窓を開け放していると、蚊が勝手にお邪魔してくることが、とにかく面倒で嫌だった。 「蚊が入ってくるし、エアコン入れちゃうね」 宿までの道のりに、既に暑さの限界を迎えていた私は、ルームツアーのために開けた窓をピシャリと閉め、エアコンのスイッチを慌ただしく入れた。 「ふうー、涼しい」    ソファにどかっと身を沈め、エアコンの冷気で、移動の疲れを汗と共に涼ませようとした。 「さっちゃん、風邪ひいちゃうよ。」  部屋に着くなり忙しなく動き回っていた私を、ダイニングチェアに腰掛けながら一部始終を静かに見ていた正人が言った。 「大丈夫大丈夫、もう少ししたらシャワー浴びて、何か冷たいもの食べに行こう」 エアコンの冷風の虜になった私は、目を瞑りながら正人に言い、そのままうたた寝してしまった。  目覚めると、ぶるっと身震いするような寒気が全身を巡った。正人がかけてくれたであろう掛け布団が床に落ちていた。寝ている最中、自分で剥いでしまったのだと思う。掛け布団を体に巻き、部屋の中で正人を探した。 「正人どこ―? ごめん寝ちゃったー」  二階建てのこのコテージは二人には本当に広く、容易に意図せずかくれんぼが出来てしまいそうだと私は思った。 一階のキッチン、トイレ、浴室まで探し回ったが正人の姿はなかった。もしかしたら、いつまでもぐうすかと眠る私に痺れを切らして先に町へ繰り出してしまったのか、と考えながら二階に上がる階段を登った。 階段を上がると、二部屋のドアノブがあり、一部屋は寝室で、一部屋はバルコニーのついた四畳半ほどの部屋だ。 先に寝室を覗いたが正人の姿はなく、もう一部屋のドアノブを回した。 扉を開くと向かい風がふわっと、突然私の顔をくすぐった。バルコニーの窓を開け放ち、外に向かって座禅を組んでいる正人の背中があった。 「ま…」  正人の名前を呼びかけたが、あまりにも清々しく、夕日が差し掛かった鮮やかな橙色の空を写したような空気が私の口を閉じさせた。 しばらくの間、三十分ほどだろうか。微々とも動かぬ正人の背中を眺め、私は一階に降りた。 後光スタイルを見た後は、いっもなぜかコーヒーを欲した。しかしコテージにコーヒーはなく、仕方なくキッチンに立てかけられていた、京丹波町産だという黒豆茶のパックで喉を潤すことにした。 これがなんと見事な味だった。京丹波町の綺麗な水がつくりだす黒豆は、お茶に全く詳しくない私でも感動せずにはいられなかった。一口一口、舌に味わい深く残る黒豆のコクが美味しく、本当に素晴らしいものだと私は身をもって体感した。  黒豆茶に感動している最中、腕に止まった蚊と目があった。 「パチン!」  ほとんど反射的に腕に止まった蚊を叩き潰した。けれど、じんわりと痒みを感じ、丸く赤みを帯びて蚊は存在を示してきた。 一階の窓はエアコンのために全て閉めたはずなのに、とぽりぽりと刺されたところを掻きながら、少し苛立ちを覚える。掻く腕にもかゆみを感じて見てみると、両腕一箇所ずつやられていたのだ。 原因は、二階で後光スタイルをする正人の部屋だ。自分が三十分ほどで両腕やられているのだから、正人の血は蚊に吸い尽くされているのではないか、と私はゾッとした。そもそも一体、どのぐらいの時間正人は蚊と対決するつもりなのだろうか。夕方の今頃は、一番蚊が飛んでいるのだ。正人と蚊の勝敗を見に行きたい反面、あの部屋にいる正人の邪魔をしたくはなかった。 すると、ゆっくりと階段を降りてくる音がして、一階に降りてきた正人に私は駆け寄った。 「ねえ、蚊に刺されたでしょたくさん! ていうかどのぐらいの時間ああしてたの?」 「うん、 めっちゃ刺された」 にこにことしながら、両腕を私に差し出してきた。数えてみると、両腕合わせて十八箇所ほど。さらには首に二箇所、太ももに一箇所、小さく丸い赤みを帯びていた。 「かゆくないの?」 「かゆい」 「どのぐらい二階にいたの?」 「うーん、三時間くらいかな。 窓からの風が気持ちよくて、そのまま瞑想してたね」  終始楽しそうに話す正人を、改めておかしな人だと思いながら私は聞いていた。  その夜、京都の美味しい晩酌中、例の蚊への敗北行動について正人に真相を聞いてみた。 すると、「ヴィッパサナー瞑想法」というものを行っていたらしい。  ヴィッパサナー瞑想法。一度座ったらどんなことがあろうと、姿勢をそのままにしなければいけないらしく、二、三時間ほど、その人が動く必要のある理由はないのだという。もしなんらかの不快を感じたなら、その不快について瞑想し、自分がなぜ肉体的に不快であり、その苦痛がなにをもたらしているのかを観察しなければいけないらしい。仏教の瞑想法の中でも、もっとも正統的なものなのだとか。心を見つめる修行。私は珍しく黙々と話している正人の言葉を傾聴し続けた。  それにしても、蚊がブンブンと飛ぶ場所にしなくてもいいのでは、と言う私の途端な疑問は間も無く回収された。ブンブンとうるさい蚊に自分の気を散らされ、煩わしく感じる。この不快な状況のなか何時間も座り続けなければいけない。静寂のなか、蚊に食われ続ける自分を見つめてみる。ここで、叩きも潰しもせずに、座し続けることができれば、他の不快にも対処できるのではないだろうかと正人は置き換えたのだという。 正直、私のような仏教もなにも、初詣に行く程度の日本人が聞いてもはてなが飛び交うだろうけど、夕暮れの蚊が大量に襲ってくる時間のなか、正人がそんなことを考えながらその場に座していたのなら、ただの阿呆とは言い難い。多分。  正人につけられた蚊たちの勝利の勲章も、美味しいものを食べて風呂に入り、眠る前の黒豆茶を飲む頃にはほとんど消えていたのだ。あとかたもなく。そう、あらゆる物事は過ぎ去っていくのだ。
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