愛刀

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愛刀

養父である師範はベータである。実息が一人いるが、アルファの多い一門の中でベータが努力することは無駄だと養父の跡を継ぐことはしなかった。養父は優秀な跡取りを育てるためアルファの養子をを望んでいた。椿が中等部に通っていた頃、父が椿の養子先を探している事を知り、自ら椿を養子にと望んだのだ。 世那 (せな ) 椿(つばき)となり、跡取りになるための教育を受けながら、高等部に通う日々。 常に誰よりも優秀であろうとする椿は、これまでと変わらず何に対しても努力を惜しまない。その椿が一番嫌うこと、それは学びの場での時間を邪魔されることであった。 中等部、高等部に通っていた頃、何の前触れもなく、予期せず発情期を迎えるオメガが数人いた。椿は高等部に通い始めた頃から、誰よりも強くオメガフェロモンに影響されるようになっていた。広い校舎内、どんなに離れていようと誰よりも先に体が反応してしまう。そうなると、もう授業どころではない。生汗をかきながら帰宅し、凍える程に冷水を浴びた後、己が静まるまで何時間でも鬼の愛刀を振り続ける。 何より、自分の意思に関係なく、顔も知らない愛してもいないオメガというだけの人に、体が、アルファの本能が暴走することが嫌だった。 物心付いた頃から、一番欲しいと思っていた父の愛情でさえ受けることなく育った椿は、上手く笑うことも泣くことも出来ないまま育ち、年齢に合わない「冷静沈着」の言葉の似合ってしまう冷たい印象の少年であった。愛情を受けることができないのは自分が鬼だからと諦めていた。しかし、実際は誰よりも愛情に飢えており、発情期やヒートによって本能的に愛し合うのではなく、お互いに恋して愛し合い、求め合うことを望んでいた。 アルファとオメガの事情を振り切り、自分の意思を貫くためにも、椿にとって鬼の愛刀はなくてはならないものになっていた。 なぜ、生家の宝刀である鬼の愛刀が、家を出た椿の手にあるのか。 生家を出た数日後「忘れ物だ」と、父が養父である師範に手渡したのだ。 代々引き継がれた宝刀である鬼の愛刀。それを椿の忘れ物だからと手放す父にとって、自分は鬼以外の何者でもないのだと、当時の椿は追い討ちをかけられ数日は寝食も出来ないほど心を砕かれた。そんな椿に義父は鬼の愛刀を握らせた。初めて握る鬼の刀の(つか)が、なぜかしっくりと手に馴染むことに絶望を感じた椿の目からは、涙が溢れた。 鬼と呼ばれた先祖はさぞ大柄であったのだろう、その人の愛刀は、逸脱した長さの刀身と重みのある刀であった。 椿は義父に連れられ稽古場に入り、鞘から刀を引き抜く。初めて見たその黒い刀身は、光を受け妖しく光り、その美しさに息を飲む。これまで何度か真剣を手にしたことはあるが、これほどの存在感を感じたことはない。一振りするだけで息が切れ、汗が吹き出し、刀のことしか考えられなくなった。椿は深く大きな悲しみを切り裂くように、何時間も何度もその刀を振り続ける。力尽き、足元も覚束なくなった頃、ゆっくりと刀を鞘に収め、力尽きた椿はそのまま寝息を立て、丸一日眠り続けた。その日から、鬼の愛刀は、手放すことのできない椿の愛刀となった。
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