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香りのないヒート
部屋をノックする音がする……
「椿、開けなさい」
義父の呼ぶ声に、ソファーの上でゆっくりと目を開ける。
時計の針は七時を回っていた。体が重い。
朝方まで寒気と吐き気に悩まされ、寝間着に着替えることも眠ることもできず今に至る。
鍵を外し扉を開けると、義父顔が僅かに歪んだ。
「ひどい顔だな。どうした?」
「すみません、眠れていないのです」
私は昨夜のことを搔い摘んで話した。義父は溜め息をつき、苦笑いを漏らす。
「あれを目の前にしてもダメだったのか」
「ダメとは?」
「椿、お前にはたくさんの子を儲けてもらいたい」
またか……私が十八になった頃からしつこく言われていること。
「私は番になるオメガと以外、性交する気はありません」
「昨夜のオメガでも駄目だったのか?あれは、どんなアルファでも虜にすると評判のオメガだったのに……」
義父は、私が番を持たず、複数のオメガとの間で多くの子供を儲けることを望んでいる。義父にとって私は跡取りであると同時に、子孫繁栄のための種馬でしかない。義父の望みを知りながら、オメガフェロモンに煽られたアルファの私がオメガと性交せず終わることは、義父にとって子供の反抗と同等のようで、感情もなく性交することを拒む私の思いは理解してはもらえなかった。
「すみません、汗を流したいのですが」
「ああ、落ち着いた後、私の部屋に来なさい。話がある」
「わかりました」
部屋から義父を送り出し、念のため刀の保管を確認し、汚れた稽古着から普段着の和服に着替えて風呂場へと向かう。家では主に浴衣だが、ここでは襦袢と長着を羽織り一本の帯を締める。手順を覚えてしまえばこんなに手軽なものはないと思う。外出時に和服は滅多に着ないが、家の中や、こういった集まりの時は和服が楽でいい。
来客の多いこの屋敷には一度に三人ほどが使える広い風呂場がある。脱衣場に入ると、奥から水音が聞こえてきた。先客があるようだが遠慮することもないだろう。
手早く帯を解き、長着と襦袢を脱ぎ、腰にタオルを巻いて風呂場へと入ると、すぐ近くのシャワーの下に湯着を着たオメガの彼が立っていた。
「ごめんなさいっ」
反響する高めの声。
体を震わせながら私を見上げ、濡れて重たげな長い睫毛の下で澄んだ黒い瞳を潤ませる。
しまった、私は彼を怖がらせてしまっただろうか。
この場は一旦出るべきだろう。
しかし……あまりの色香に、失礼だと分かっていても目が離せず、私は動けなかった……
纏め上げられた長い黒髪、肌に張り付いた湯着と、わずかに透けた肌。その首輪に隠れた項を、見てみたいと思う。
「あの……」
声をかけられ、この人を凝視してしまっていたことに気付く。見れば、顔を赤く染て居心地悪そうに身を縮めていた。
「っすみません、失礼しました」
誤魔化すように結っていた髪をほどいて気持ち程度に顔を隠し、彼の後ろから隣のシャワーへと移動する。シャワーからザーザーと流れる湯を浴びながら乱暴に髪を流していると、隣から声がする。一度は聞き流したが、水音に混じって聞こえる声は確かに私を呼んでいた。シャワーを止めて前髪をかきあげ、声のする方へ顔を向けると、見下ろす格好になる。そこには、ますます顔を赤くして私を見上げる人。その目は真っ直ぐに私を見ていた。
「なにか?」
「あの……これで良ければ、使ってください」
「え?」
差し出された両手には小さな三本のボトルが置かれていた。
そうだ、うっかり持ち込むのを忘れていた。ここに石鹸類の常備されたものはない。宿ではないのだから当たり前といえば当たり前なのだ。
「どうぞ、ご遠慮なく」
ボトルを乗せた両手がスッと上がる。
「「あっ」」
重なるボトルがコトリとバランスを崩して落ちそうになったのを、思わず手を伸ばして華奢な手ごと受け止めた。
「ごめんなさ……」
「ありがとうございます。お借りします」
表情を出すことが苦手な私は、今、どんな顔をしているだろうか。あなたを怖がらせてはいないだろうか。
ボトルを受けとると、不安気だった顔が私を見上げてふわりと綻ぶ。
──頬を染める美しく愛らしい人に、綻ぶ赤い花を連想した──
「はい。では、失礼します」
その姿が扉の向こうに消えてから、腰に巻いていたタオルを外し泡を立てる。体を洗い流してシャワーを止めたとき、脱衣場からガタンと大きな音が聞こえてきた。
ぐらりと目眩がした。体が燃えるように熱くなり、鼓動は速度を増す。吹き出る汗は体に残る水滴と混じっては流れ落ちていく。
私の体はオメガの発情に反応し始めていた。
荒くなる息を整えながら脱衣場の扉を空けると、そこには浅葱色の浴衣を身に付けた人が震えながら踞っていた。足元には手荷物が散乱している。
オメガへの反応を強くする体に舌を打ち、濡れた体にそのまま長着を羽織って帯を巻き、声をかける。
「だい、じょうぶですか?」
震えてしまう声にうんざりしながら、平常心を保てと自分を叱咤する。震えながらこちらを向いた人は、泣いていた……
「しかられ、る……くすり……」
薬?叱られる?
「大丈夫、落ち着いて。その薬はどこに?」
「あおい、びん……よくせ……ざい……」
「抑制剤ですね?」
こくりと頷き、足先までを丸め浴衣の生地を握りながら跳ね上がる自らの体を強く抱きしめる人。すぐに浅葱色の浴衣が所々で色濃くなっていくのが見てとれた。彼から止めどなく発せられるフェロモンが濃厚さを増し、くらくらする。視界がぐにゃりと歪み、目の前で光が弾けた。
──ヒート──
ホシイ……ホシイ……イマ、スグニ……ホシイ……
細胞の一つ一つが目の前のオメガが欲しいと疼く。
手を伸ばせば届く距離。発情期を迎えたオメガのフェロモンを同じ距離で感じたことは何度かあった。それでも、今までにないほど煽られていく。腹の底に渦巻く熱が、ねっとりと背筋を絡みながら登り、じわりじわりと身体中に広がっていく。熱に侵された細胞は渇きを覚え、あの溢れる涙や滲む汗で潤されたいと訴えてくる。甘くて美味だと囁いてくる。
くそっ……意識が飛んでしまいそうだ……
奥歯を噛みしめ唇を噛み鉄の味に理性を繋ぐ。
片膝を付き、目についたペットボトルを拾い上げる。続けて散乱した荷物を一所に集めながら青い瓶を探し当て、急いで蓋を開けと、中には白い錠剤が詰め込まれていた。
「ありました、何錠ですか?」
「ろ、く……」
「え?」
「ろく……」
一度に六錠と言うのは聞いたことがない。通常は一錠はずだ……
「六錠で間違いないですね?」
僅かに頷いたのを確認してから、手のひらに六錠を数え差し出した時……目の前で崩れ始めた彼の体。それを支えずにはいられなかった。
錠剤を握ったまま片腕で受け止める。そのまま抱き寄せた体は熱く、また適度に柔らかく心地いい。はだけた襟元からのぞく上気した肌に、堪らず舌を伸ばす。
「あっ……」
舌先が触れただけで上がる甘い声と震える肌に強く誘われ、止まることはできなかった。そのままゆっくりと鎖骨をなぞり、味わい、滑らかな肌に歓喜した。
続けて襟元から手を差し入れ肩を撫で、丸みを帯びたそこを擽ろうと首を伸ばしたとき、手のひらから錠剤がバラバラと落ちていった。
蜘蛛の糸ほど残っていた理性に引き戻されて我に帰る。ゆっくりと体を起こし、可能な限り呼吸を整えながら自分を落ち着かせ、瓶に手を伸ばす。
「ぼくは……だめ、ですか……」
腕の中の人は私に焦点を合わせ涙を流した。
「……いいえ」
薬を飲み下し易いように腕の中の人を抱き起こし、その背中を支える。もう一度手のひらに六錠を数え、薄く開いた唇から口内へゆっくりと押し込む。
カリッと薬を砕く音がして、しばらくすると喉がゆっくりと上下した。
二錠、三錠、四錠、発情はおさまる気配がない。こんな飲み方をして体は大丈夫なのだろうか……
発情は五錠目でおさまる気配をみせ、六錠を飲み終えた数分後、ようやく発情がおさまり、腕の中の人はぐったりとして目を閉じた。腕にかかる重みが増したことで密着が増し、自らの雄がズクリと嵩を増す。
そこで私はようやく気が付いた、彼のフェロモンが香っていなかったことに。
オメガフェロモンに当てられると、必ずその匂いが鼻について体にまとわりつき、どんなにオメガと離れていても、自分のヒートが終わるまでその匂いが消えることはなかった。それが今、私のヒートは全くおさまっていないにも関わらず、香らない。
しかし、昨夜の彼から発した匂いは、かなりきつく香っていた。あれはフェロモンではなかったのか。そういえば、私の体はそういう意味では全く反応していなかった。
腕の中で眠る人が僅かに眉を寄せる。苦しいのだろうか。
とりあえず、ここを出よう。
私は彼を抱き上げ、廊下に出た。
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