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 古来より、富貴の家柄として人口に膾炙(かいしゃ)する西園寺一族には、性質も役割も異なる二つの勢力が存在していた。  二つの勢力の一つは、傑出した代議士と実業家を続々と輩出し、政界、財界で各々が要職に就き、現代においても表舞台で華々しく活躍していることから、彼等はいつしか、『 表 』と呼びならわされる様になった。  世の人々にあまねく知れ渡る彼等に、数多の傘下が畏敬の念をもって追従し、今も昔も栄華を極める『表』西園寺一族。  ――― しかし、赫々たる彼等には致命的とも言える、たった一つの大きな弱点があった。  それは、表とは対極の性質をなす『 裏 』の存在である。    『 裏 』とは、秘密裏に近親婚を繰り返すことで、一族の祖に寸分違わぬ濃厚で高貴な血を宿した西園寺家の人々のことを指し、彼等はかつての臣下にあたる『表』と、傘下の人々を念じただけで操ってしまうという、特殊な能力を持っていた。  (まじな)いめいた力と、類稀な美貌と叡智で以て『表』と傘下を骨抜きにし、たちまち傀儡にしてしまう『裏』。  そんな彼等が暮らす『裏』西園寺邸は、泰然と構えた主峰の中腹に沿うようにして、幾星霜の今日もひっそりと建っている。  立ち並ぶ深い木立と、なだらかな山の稜線を漂う雲霞(うんか)に覆われ、まるで、衆目を避けるかのように……。  一樹は棟と棟を繋ぐ登廊や、自然の風光を取り入れる為の、小さな中庭を囲む回り廊下を渡り終えると、前棟とは趣を異にした中棟に入った。  柳の後を歩きながら、黒く塗れ光る板敷の長廊下や、入側縁に建て込まれた明り障子を眺め渡す。  『裏』と『表』、傘下の重鎮達が密かに会する場として設けられた中棟の座敷は、調度品や建具だけでなく、建材にも髹漆(きゅうしつ)がされている。  視線を上げれば天井板や棹縁に。見落としがちな敷居などの内法物(うちのりもの)にも、殆どの木部に木目を活かした拭き漆が贅沢に施されている。  幾つもの工程を八度繰り返した塗り肌は、滑らかで味わい深い光沢を放ち、同時に幽玄な(くら)がりをも生み落としていた。  知らず知らずのうちに嘆息が漏れる。  華美と言うよりは、純美な佇まいを見せる中棟に漂う厳かな静寂を、一樹は特に気に入っていた。  屋敷は奥に進むほど複雑さを増し、来訪者の迷いを生む造りとなっている。  これも外門を抜けた時に感じた護衛達の視線と同じ、奥棟に住まう『裏』の人々を守る要所となっているのだろう。  柳の案内が無ければ、夕暮れを迎えても同じ場所を延々と彷徨っていたかも知れない。  やがて、屋敷を熟知した者のみが迷わずに辿り着ける、奥棟の入り口に差し掛かった頃。  ふと一樹の鼻腔に、湿り気を帯びた風に乗って雅な香りが届いた。  しとやかに香りが流れて来る方角へ、遠く視線を遣る。  視線の先には、(かなめ)が暮らす南棟があった。  要は室礼(しつらい)の一つとして、季節に合った半生状の練香、六種(むくさ)薫物(たきもの)を頃合いをみて薫き、こうして残り香で出迎えてくれる。  最後にここを訪れた時は夏の香、荷葉(かよう)であったが、秋を迎えた今は、菊花の香りに変わっていた。  本物の菊の花も香料として温めているのか、辺りには甘く優しい、要らしい香りが漂っている。  練香とは、粉末にした様々な香料を微妙なさじ加減で調合し、炭粉や梅肉を加えて練り合わせ、丸薬状にして壺内にて熟成させたお香の一つである。  『裏』の人々はこれをルームフレグランスとして使うと同時に、伏籠(ふせご)と香炉を使い、身に付ける着物にも香りを薫きしめていた。  なんとも古風な暮らしぶりだが、この家に伝わる調合法が平安の時代から受け継がれているらしく、練香を使うのは伝統を守る意味合いもあるのだそうだ。  線香のように直接火をつけることはせず、温めた灰の熱を利用してゆっくりと引き出された香りは、奥ゆかしく(かんば)しい。  久方ぶりの逢瀬に胸をときめかせ、上等な薫物をたいて恋人の訪いを待ち望んでいる要の姿を思い浮かべると、固く引き締めていたはずの口許が緩んだ。
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