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3.
―― 馨しい香りが深まってゆく度、要への思いが募る。
逢瀬を待ち焦がれていたのは自分も同じだと告げ、華奢な身体を掻き抱いて、燃え盛るこの胸の熱さと鼓動を、今すぐにでも骨の髄まで思い知らせてやりたい ―――……。
南棟へ向かう足取りが自然に早まる。
要の元へ一刻も早く駆け付けたい衝動を押し殺す一樹だったが、先導していた柳が、何故か急にピタリと立ち止まった。
「……む。やっと終わったか。思ったより時間がかかったな」
腕時計の盤面を見下ろし、誰にともなく呟く。
出端をくじかれ不満に眉根を寄せるも、前方からやって来る物々しい気配に気付いた一樹も柳に倣い、道をあけた。
ここは『表』ですら安易に立ち入ることが許されない、最も厳格とされている区域である。薫香を含んだ追い風に乗り、誰がやって来たのかを瞬時に察した。
背筋を伸ばし、その場で深々と敬礼する。
やがて、長廊下の曲がり角から厳めしい護衛達を引き連れた『裏』西園寺家当主、弥扇が現れ、悠々とした足運びでこちらにやって来た。
弥扇は仕立ての良いブラックスーツを着た凛々しい姿に目を留め、瑞々しい大輪の牡丹も色褪せて見える程に、あでやかに微笑んだ。
「やあやあ、やっと来たな。ここに訪れるのは二月ぶりになるのではないか? 昴の息子、マサトよ」
「一樹です」
柳が口を開くより先に訂正する。
今日は来客の予定が入っていないのか、鉄紺色の無地御召で仕立てたラフなアンサンブルを纏う美貌の当主は、帯に差した短地扇子を取って広げ、優美な仕草で口許を覆った。
一樹の指摘など、どこ吹く風といった調子である。
「……全く、困ったことだ。我が後継者殿は朝から気もそぞろで、『裏』の次期当主としての務めを懇々と力説しても、まるで上の空でな。普段なら難なくこなす特訓も、直ぐに集中が途切れてしまって身に入らないと来た」
悪戯っぽい目で一樹を暫し見詰めた後に、扇子の裏で濃艶な笑みを浮かべる。
「ふっ、ふふふ…。夜離れの侘しさに身を焦がし、幾日も恋人を待ち続ける姿というのは……。実にあわれで、美しいものだな」
細めた瞼の奥で光る双眸は、咄嗟に視線を逸らせた一樹の心の裏まで見通しているかのようだ。
ぱちりと扇子を閉じ、懶い表情でため息を吐く。
「私も寂しそうにしている要を慰めてあげようと、毎晩南棟に通っているのだが。何故かいつも、充に追い返されてしまうのだ。屋根裏を伝って要の寝所に忍び込んでも、僅かな物音で気付かれて摘まみ出されてしまう。充は護衛としても優秀だな。流石は私の孫だ。毎日何かと気忙しい充のことも、労わってあげたいのだが」
「弥扇様。僭越ながら申し上げますが、充が毎日気忙しくしているのは貴方の所為です。あやめ様からお預かりした大切な孫達に夜這いを仕掛けるなんて、祖父である以前に人としても、倫理感の欠如した有るまじき行為だと見受けられますが」
柳の冷静な忠言に、頬をふくらませて反論した。
「違う、夜這いじゃない。私は可愛い孫達に添い寝してあげて、存分に愛でたいと思っているだけだ。それに、要も充も照れて素直になれないだけで、本心では稀有な美貌をもつこの私に求められることを望んでいる」
「………」
常軌を逸した変質者らしい思考回路を持つ弥扇を見ていると、一番の被害者である要と充の母、あやめのこれまでの苦労が偲ばれる。
先月始め、秋庭邸で弥扇を交えて初の食事会が開かれたが、あやめの父に対する恨み辛みは根深く、容易く解消するものではなさそうだった。
権力にものを言わせた威圧で、あやめの前夫、立花が怖気付いてしまい、彼女と幼い子供達を置いて逃げるように家を去ってしまう原因を作った張本人なのだから、無理もない話なのだが。
あやめは西園寺側の援助の申し出を全て断り、定期的に現れる弥扇と屈強な護衛達を撃退しながら骨身を削って働き、毎日沢山の愛情を子供達に注いで、育て上げた。
呪わしい一族との因縁を断ち切り、温もりと笑顔に満ちた、ささやかな生活を営むあやめ達だったのだが…。
狡猾な弥扇の画策により、要は彼の後継者として、異父弟の充は兄を支える側近として、結局は子供達を西園寺家に奪われる形となってしまったのだ。
今も一人、静かに心火を燃やし続けるあやめに救いがあるとするなら、それは……。
実は、要が弥扇をも凌駕する程の絶大な力の持ち主であり、『裏』の存在意義をあやめと、同じにしていることだろう。
弥扇らはひた隠しているが、大所帯の『表』と傘下を意のままに操れるのは、弥扇とあやめと要の、三人だけ。
濃厚な血で紡がれた繰り糸による支配は、悠久の時の流れと共に次第に薄れ行き、終焉を迎えつつあったのだ。
本来のあるべき姿に還ろうとしている『表』と傘下を、弥扇の血の呪縛から解放し、衰残の身で、尚も一族の威光にしがみつこうとする『裏』を解散する。
――― これが、『裏』西園寺家最後の当主となる要の、決意だった。
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