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4.
「あい分かっ………。分かった。 分かった! さ、要が首を長くして待っているだろうから、早く行ってやりなさいマサキ。昼餐の用意が整ったら使いを寄越すから、それまで南棟で存分に寛ぐが良いぞ」
「一樹です。有難くご相伴にあずからせていただきます」
「うむではまたあとで」
流暢に続く柳の小言を煩そうに扇子で振り払い、急ぎ足で中棟へと引っ込む。
板敷の上を滑るように遠ざかって行く背と、揺るぎ無い機動力で追蹤する護衛達を真顔で見送った柳は、
「弥扇様はああ見えて、力を使わずとも生得優れた統率力を具えた御方なのだが。何分にも独善的で自己陶酔が激しく、我欲に忠実すぎで自由気侭な御方だから、振り回される事があっても気に留めず、差し置いて貰えると助かる」
と、弥扇のフォローのつもりなのか、一樹に向けた詫び言なのか、いまいち判別しにくい事を愚痴った。
ようやっと、南棟の客人をもてなす会所(書院)まで辿り着いた二人は障子の前に座し、柳が良く通る声音で声を掛けた。
「要、開けるぞ」
すぐに、はい。と奥まった場所から物腰の柔らかな返事が届く。
すらりと障子が開かれると、ここまで導いてくれた菊花の香りが室内の温もりと共に、一層濃く一樹を包んだ。
「一樹さん。雨に濡れませんでしたか? 外は肌寒かったでしょう」
二十畳はあろうかと思われる、厳格な書院造の会所の奥にある床の前。
香料を詰めた薬玉と、大輪菊、赤楓や黄銀杏など、秋の植物を絹で模した有職造花があしらわれた平薬を背に、『裏』西園寺家次期当主にして一樹の恋人、西園寺 要は、見る者を夢へと誘う美しさで微笑んだ。
「急なお願いをしてしまってすみません、柳さん。ありがとうございました」
桜色の手指を揃えて浅礼した後に上げた瞳は、宝玉の輝きを放つ伽羅色。
吐息の温もりだけで溶け落ちてしまいそうな、儚い淡雪を思わせる白い頬と首筋に、飴色の髪がゆるく波打っている。
珊瑚色の口唇が紡ぐゆったりとした玉音に全神経を蕩かされ、身動ぎ一つ出来ないでいる一樹に気付いた柳は、
「なに、車の手配くらいどうと言う事は無い。気にするな」
と、吹き出したいのを堪えながら彼の背に手を添え、入室を促した。
半ば押し出される形で敷居を数歩越えると、背後で障子が音も無く閉められた。
「どうぞこちらへ。火鉢の傍は暖かいですよ」
手招いてくれる要の近くまで夢心地で寄り、大人しく座すと、火鉢で温められた鉄瓶を使って、手ずからお茶を淹れてくれた。
初々しい所作と麗しい着物姿を前に、思わず喉が鳴る。
今日の要は、松の葉の濃さを思わせる千歳緑の紋御召に、色とりどりの乱菊模様が染められた山吹色の名古屋帯を合わせていた。
控えめに紅葉が刺繍された縮緬の半襟も女性的で品があり、彼に良く似合っている。おそらく、異父弟の充が見繕ったのだろうと察せられた。
「ありがとう。…ところで今日は、充君はいないのか?」
湯飲みを受け取り、ちらりと周囲を窺いながら訊ねた一樹に、穏やかな顔で答える。
「はい。夕方まで柔道の強豪校と練習試合があるらしくて、朝から張り切って出発しましたよ」
「……そうか」
香り豊かなお茶を味わう途中で、口の端が笑みの形に湾曲しそうになるのを堪えた。
西園寺家での逢瀬の際、側近としての忠義心なのか何なのか知らないが、隣り部屋に充が常に控えていた所為で要との行為に集中出来ず、不完全燃焼気味だった一樹は、常々不満を覚えていたのだ。
映画館やショッピングにと要を連れ出しても、毎回弥扇とその護衛達までぞろぞろと物見遊山に付いて回るものだから、外でのデートにも心から楽しめないでいた。
―― こうして要と二人きりになれた事に満足し、一樹の心は久々に浮き立っていた。
「最近なかなか時間が合わなくて、電話だけだったから…。一樹さんとお会いできて、とても嬉しいです」
空になった湯飲みを下げようと伸ばした手に、一樹の大きな掌が重なる。
「俺もだ。もう何度、要に会いたいと思ったか数えきれない」
「あっ」
握られた手を強く引かれ、厚い胸に抱き寄せられた要はうっとりと瞳を閉じた。
『裏』の次期当主として、先月正式に『表』に発表された要は、普段は普通の高校生として学業をこなしつつ、休日は御披露目のパーティーや後学の為に総会へ出席したりと、何かと慌ただしい日々を過ごしていた。
やっと取れた折角の休みも、一樹の共通テスト対策模試の日程と被ってしまい、会えずにいたのだ。
「生徒会執行部も完全に世代交代したし、学校で顔を合わせる機会も減ってしまったな…」
馨しい飴色の髪に鼻先を埋め、苦笑する。
たまに廊下ですれ違うことはあっても、要と並んで歩く碧川が視界に入り込んだりと、学校でももどかしく思う瞬間が多かった。
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