KNOCK

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************ 「そして、あなたはこれから先もこの場所でピアノを弾いていくことに決めたのですね?」  その日本人は流暢とは言えないまでも、彼なりの一生懸命な単語選びで自らのインタビューを終えようとしていた。 「ええ。私はピアノそのものを愛していますから。」  ビリーは迷いなく、その言葉を口にした。   「ありがとう。本日のインタビューはこれで終わりです。……やっと観光番組ではなくドキュメンタリーで、あなたを取材する許可を得られた。嬉しかったですよ。」 「まぁ、あなたがドレスコードを守ったから。」  ビリーは立ち上がって男に手を差し出し、笑った。互いに交わした握手は、苦労を知った同士の労いが込められているようだった。 「しかし、本当に良かったんですか?NYのブルーノートに演奏を乞われるだなんてめったに無いことだろうに。」  帰り支度をしながら様子を伺って来た男に、ビリーはひらひらと手を振った。  実際、5年の月日はビリーに苦節を強い、過ぎた努力はビリーの糧となった。派手な名声は無くとも、ビリーの心にはある種の安寧(あんねい)が根付いている。それを手放したくはない。   「私が欲しいのは自分の中でのベストであり、そのことに場所が関係するとは思えないのです。」 「節目になることだとしても?」 「春だからって何か変わらなくちゃいけない訳でもないでしょう。」  まだ納得しかねた顔をしている男に面会の終わりを促した瞬間、店の入り口に妙な気配がした。  コン、コン。  独特の音をしたノック。  ビリーは弾かれるように椅子から腰を上げた。  先にドアを見ていた男は、ビリーを振り向くと苦笑いをした。 「……もう一度聞きます。本当に、あなたはこれから先もこの場所に留まりますか?」  コン、コン。  身体中が、期待と絶望と沸き立つ血液でぐちゃぐちゃに混乱している。  ――やっと来やがった。  いつかこうして来ると思っていた。それを待っていた。どうにかを付けた自尊心を一瞬で吹き飛ばす歓喜に、自分は他ならぬ彼にとって聴く価値のあるピアノでありたいと思っていたのだと気付く。でもだからこそなおさらそれに苦しみ、諦め、乗り越えたと思った頃にこうしてやって来るだなんて。  わかっている。  シンはビリーがここに留まることを許さないだろう。  再び扉を開ければ、時間は止まってはくれない。そしてまた新しい困難と、出会いと、喜びが、人生の記憶を塗り替えていくのだろう。  コン、コン。 「わかってる。わかってるよ、シン……」  ドアを見つめたまま動けないでいるビリーに、ノック音はときおり歌うようにリズムを変える。  コン、コン。  輪郭が見えるほど明確な意志を持った音に、とうとう「あぁもう!」とヤケクソな笑みがこぼれた。 「これだから、桜は嫌いなんだ。」  ビリーは大げさにため息をついて、それからおもむろにドアの方へと歩いて行った。 〜fin.〜
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