KNOCK

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 期待には絶望が貼り付いている。  感情が実体を持つとしたら、陽は気体、陰は液体だ。それもとびきり粘度が高く、スティッキーな。  ふわふわと膨らむ気持ちに覆い被さり、後を引き、腹の底、仙骨の下あたりに沈み込んで胃酸を刺激する尽きない絶望が、かえって最後には自分の(すが)るところになるのだと、ビリーはよく知っていた。  川沿いの黒々とした木々はひび割れた被膜から樹液を(こぼ)しながら、せっせと(つぼみ)を作っている。  夜道を歩く人を導くようであざとくそれらの影を濃くしている街灯群の下を、足早に通り抜ける。  真冬の頃にはまるで愛想が無いのに、少し空気が緩んだとなれば狂ったように時間を進めるその木々が、嫌いだ。 「だからね、君は少し、酒を飲んだほうが良いよ。」  そう言ってあてがわれた酒には、何かおかしなものが混ぜられていたのではないかと今でも思い出す。  仕事の前に酒は飲まないはずなのに、その時だけは、逆三角形に据えられた薄桃色の液体が傾いて唇を濡らすのを、心地良いと思ってしまったのだ。  舌から喉、喉から食道を伝ったアルコールは体温で蒸発して、感情を揺りおこした。きまってその記憶には、甘くて青臭い、桜の香りが付き(まと)う。 「お前、何でもかんでも言葉にしようとするなよ」  ――品の無い。  口に出さなかったはずの台詞さえ、彼には全てお見通しだった。そうしてニヤリと笑って、可笑しくてたまらないというふうにビリーの瞳の奥の奥を見つめながら茶化す。   「品が無いだって?まさか。僕は確かに高尚では無いけれど、どこまでも誠実ではあるんだ。君が避けている一切の努力を、少し手伝ってやっているだけだ。まぁ良い、不機嫌になっていなよ。そうじゃなきゃ君ではいられないんだろ。」 「おい……」  完全に的を射た論旨に悔しくなってこちらが反論をしようとすれば、するりと視線の交わりを断つ。そうして残された柔い雰囲気が無言のカウントダウンで消えて行くのを、彼は間違いなく楽しんでいた。  シン――詩人のシン。  彼が現れて消えた季節から、ジョージタウンにはもう5回目の春が来る。  
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