翔太さんとの小さなじかん

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 五十五才の母の誕生日に、有子は翔太と知り合った。母が九日後に、手術を控えている日だった。母は、静岡市葵区鷹匠でプチ檸檬というカフェを営んでいた。静鉄電車日吉から徒歩5分の細い道沿いの雑居ビルの角にあった。静岡駅からも歩いて18分ほどだ。店には有子の小さな絵を飾ってある。有子は東京の美大を卒業していた。十分に東京生活に失望を感じたあと、実家に戻ってきた。母とのふたりの生活は静かである。ランチタイム11時30分から3時まで。夜は6時から9時まで開けていた。官公庁が近く、食事と珈琲のひがわりランチが人気があった。店は穏やかな空気が流れており、人々の憩いの場所になっていた。夜は煉瓦からもれる灯りが、お帰りといっているようだよ、と常連客は話をしていた。カウンター五席と、座席五席の店であった。有子は、イラストレーターの仕事と、カフェの仕事を兼ねていた。翔太は有子より八つ年下の二十五才で、新聞記者だった。  あれ、どっかであったことがある。そうだ。アンディーウォーホールに似た国語の先生に雰囲気が似ていた。彼は木曜日はカツカレーの日と決めているらしかった。カツカレーと濃い珈琲を飲むと元気とやる気がでるということだった。どうして木曜日はカツカレーなの、とあるとき有子は聞いた。寂しそうな哀しそうな瞳で、木曜日は、英語でさすでぃというでしょう。刺されて死んだ人の霊魂に引っ張られないようにするためですよ、といってうつむいた。関西の方?というと、神戸で一番有名な男子高から一橋にいってそれで真産新聞で働いているということだった。一応、経済学部なんですよ、といった。あら、だったら金融とかいかれたからよかったのに、というと、銀行に勤務していたのだけれども、三か月でやめて、新聞社に転職したということだった。あら、そうなの、というと、ポケットから檸檬の文庫本を取り出した。僕は、ここに檸檬のようなすがすがしさをかんじているのですけれども混とんとした世の中に得体のしれない不安を感じることも多くて、でも何も考えないで金勘定をするのも向いていなくて。そうよね、と、有子も最初は東京で世界に羽ばたく現代アート作家を目指していたのだけれども、なかなか、うまくいかなくて、小鳩が羽をたたむように実家にもどってきたの、と告げた。僕は、あの絵が好きですよ、といって、白い猫が上向きになって笑っている絵を指さした。ああ、あれ、嬉しいわ、と有子がいうと、譲ってほしいのですが、といったので、常連さんなので、差し上げます、といったのだけれども、それではあんまりなので、四万円を置いていかれた。それじゃあ遠慮なくいただきます、とエプロンのポケットにいれた。今度、足を組んで煙草を吸ってる猫をかいてもらえませんか、と尋ねられたので、いいですよ、と答えた。そういう感じで二人は店員と客という関係をくずさないかたちでなんとなく閉店後も、はなすようになった。雨がざあと降っている夜、片づけを終えていると、有子さん、僕が夜食をつくってあげますよ、といってくださった。あら嬉しいわ、というと、簡単な、スパゲティナポリタンをつくってくださった。これは大学時代に通っていた店の味なんですよ、と話された。そうなの。わたしも大学時代パスタばかり食べていたわ、と笑いあった。大学時代って本当に自由ですよね、とおっしゃった。うーんどうかな。わたしは成果が形となってみえるから、ライバル心が強かったわ、と遠い目をした。夢はあきらめちゃだめですよ、と翔太はいった。あいまいに有子は微笑した。わたしはすごくアンディウォホールが好きで、アンディみたいにずっとなりたいと考えていたのだけれども、だんだんと、どんくまさんのクリスマスみたいな小さな絵を描きたいような気持になって最近は動物ばかり描いているのよ、とつげた。わかるなあ、僕もニューヨークタイムズみたいな新聞でもっと、支局長がダイナミックな人物でこれでいこう、みたいなだいご味を感じたいな、とおっしゃって実は夜ネットで英語の勉強をしているんだ、と告げた。わたしも、してみたい、というと、サイトの名前を教えてくださった。テーブルの上にケチャップで汚れた白い皿と、フォークとスプーンが残った。有子はやさしいじかんだな、と想った。こういうやさしいじかんを閉店後にもつということは、心が豊かなになるな、と想った。翔太はやわらかく微笑んでいた。
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