火曜日

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「あなた、何をしているの?」  振り向いた先には、声のイメージ通りの妖艶な美女が立っていた。ワイン色の前下がりボブが、サテンのスカーフにサラリとこすれる。赤いドットのワンピースは、ぴっちりと見事な曲線美を描いていた。20代にも30代にもそれ以上にも見える年齢不詳さは、もはやアートの域に達している。  彼女はまるで海外映画のポスターから抜け出てきたヒロインのようであったが、レトロな商店街にも不思議とよく馴染んでいる。看板の女性の名前を擬人化したら、まさにこのような女性になるのではないかと思った。  彼女の黒々とした猫目はわたしの視線を絡めとり、真っ赤な口紅で彩られたその唇は、トカゲのようにぬらりと動く。 「あなたはここに生きる方では無いわね。私に、何かご用?」  女性の言葉は、馴染みのない複雑な組み合わせをしている。が、既に非日常に取り込まれていたわたしには自然なものに感じられた。普通じゃないことに、寧ろ安心する。やはりここはいつもの世界ではないのだと、わたしは素直に理解した。わたしは存外、適応力の高い人間だったのかもしれない。 「それが、わたしにもよく分からないんです。気が付いたらここに居て……ここはどこでしょうか?」 「ここは私の世界。“火曜日の世界”よ」 「火曜日の世界?」  前言撤回だ。彼女の言葉に思考が適応できない。 「そう。私の名前は“火曜日”。可愛い迷子の子猫ちゃん、あなたはどこからいらしたの?」  自らを火曜日と名乗る女性は、ハイヒールの踵をカツカツ鳴らしてわたしに歩み寄る。そしてその細長い指で、わたしの頬に触れた。  強く香る香水の匂い。風を起こしそうな長いまつ毛。彼女の艶美さには、同性であっても目眩がした。心臓が高鳴る。体温が上がるものと、下がるものの、二種類がない交ぜになったドキリだ。だからこそ早く答えなくてはならない。自身を保つ為に。  わたしがどこから来たか……。  彼女が火曜日だというのならば、きっと答えるべきは具体的な地名などではなく―― 「わたしは……月曜日から来ました」  そう答えた瞬間、彼女のルビー色に塗られた爪が頬に食い込む。わたしは痛みで顔をしかめたが、彼女の方が何倍も、しかめっ面をしていた。 「あら、そう。随分とつまらないところから来たのね」  そう言ってわたしから離れた火曜日は、もうわたしに微塵の興味も無いというように背を向けて歩き出した。彼女から解放されたわたしは安堵と少しの落胆を抱きながら、彼女を追う。わたしは彼女に聞きたいことが山程あるのだ。 「あの!わたしはどうすれば元の場所に戻れるのでしょうか?」 「知らないわよ。月曜に捨てられた捨て猫ちゃん」  火曜日は高いハイヒールをものともしないように、さっそうと歩道橋を上がっていく。わたしは彼女の態度の変わりように驚きながら、その色っぽい後ろ姿に追い縋る。 「捨てられたって、どういうことですか?教えてください!」 「うるさいわね!あんな嫌われ者のところに戻りたいなら、好きにすればいいわ。精々頑張って彼を探すことね」 「彼って……“月曜日”のことですか?」  歩道橋を上り終える手前、くるりと火曜日が振り返った。わたしは驚いて足を止める。階段の途中で振り返るなんて危ないではないか、と非難したい気持ちになったが……それは過失ではなく故意だった。彼女は明確な悪意で、わたしを危険に陥れようとしているのだ。  わたしは残虐な笑みを浮かべる火曜日の手によって、ドン、と歩道橋から突き落とされた。  落下など一瞬のことであるにも関わらず、最後の彼女の呟きは、とてもゆっくり、はっきりと聞き取ることが出来た。 「私の世界で、それ以上不愉快な名前を口にしないでもらえるかしら?」  わたしは胃が持ち上がる不快感と共に、やけに緩慢に落ちていく。暗い奈落に落ちていく。よく小説やドラマで“最期の瞬間はスローモーションのように感じる”という表現があるが……それとこれとは別物の様な気がした。  どこまでもどこまでも落ち続けるわたしは、今はもう見えない火曜日の顔を思い浮かべる。  美しく華やかな彼女。内に秘められた苛烈さと冷酷さ。“綺麗なバラには棘がある”を体現したかのような女性だった。彼女の美貌はヒロイン級だが、ヒロインはヒロインでも、サスペンスドラマの……幸せにならない方のヒロインだ。  火曜……サスペンス……  ああ成程。と、わたしは薄れゆく意識の中、間抜けな考えに一人腑に落ちる思いだった。
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