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いつかの約束
ヒトの言葉で語るとすれば、生きとし生けるものがその生命活動を終えたのち、その魂は冥界へと誘われる。辿り着く先は天界あるいは地獄だとも言われている中で、端的に言えばここは地獄への入り口といったところだろうか。
なるほどどうして生者たちがそんな話を知っているのか不思議なものだが、こちらの記憶を残したまま輪廻転生を果たした者でもいたのだろう。
……と、いうのはかつておれが天界からヒトの世を見下ろしていた頃、太陽暦なら千年以上も前に言われていたことだ。ここでのおれは雇われ管理者のようなもの。今は専ら、死にかけた生命を導く地獄の案内人というわけだ。
おれにその役――主に素直に地獄に落ちない輩を“説得”して差し上げる仕事が回ってくるその対象は、そもそもがこちらに放り込まれるだけあってほとんどがクソみたいな奴らばかりだ。
例えば死にかけてもなお他人に責任を押し付けて自分は悪くないと主張したり、ここでは既に意味をなさない権力を振りかざしてきたり。ああ、おれに襲い掛かってくるようなのもたまにはいるが、こちとらヒトなんぞ簡単に捻り潰せる力ぐらい持っていないと、こんな役割できるわけがないってもんだ。
で、多少は反省ぐらいしてりゃあまだ道はあるものを、おれの仕事は十中八九、そんなどうしようもない奴らを地獄へ叩き落とすのが常だった。
そいつらが犯してきたあまりの悪事に吐きそうになったこともあれば、そんな奴にとどめを刺してやれた気になったこともあったかもしれない。とはいえ一々感情が動いていたのも、最初の数百年間だけのこと。
その後はずっと、来るものを淡々と捌いていただけ、そのはずだった。
「お前、大丈夫か」
明らかに何も理解していない様子で茫然と佇む子供に、事前情報も得ずに言葉を掛けたのはただの気まぐれだった。
そもそも子供がこんなところに来ること自体が滅多にないはずで、相当な悪事を働いたのでなければ何かの間違いでこちらに来てしまったのだろう。
「あっ……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「なんだ? 何か謝るような、悪いことしたのか?」
「あ? ……なんだ……なんでもない」
「なんだそれ。まあいいけど」
謝る相手ではないとわかった直後のこの変わりよう、ヒトの子供にしては随分と図太いやつだ。こちらに飛ばされたのも案外間違いではないってことか。
「…………」
「ん? どうかしたのか?」
何か言いたそうな視線を感じて問いかける。
「…………いや」
そいつは僅かに声を絞り出したと思えばふらりと腰を抜かして倒れ込んできた。
「あっ、ちょっ」
慌てて抱きとめながら、そうだな、いくら図太くたってやっぱり子供だ。なんて改めて気がつけば不思議とこいつも可愛く見えてくる。
「ははっ、そうだよな。いきなりこんなところに飛ばされて、わけわかんねーよなぁ」
「ちがっ……」
「おう、いいっていいって」
なんだ、これがヒトの言うオヤゴコロっていうやつか?このまま放っておけなくて、抱き寄せてポンポンと背中を叩いてやれば、おれの衣をギュッと握るこの強がりな手も可愛いのな。いずれ地獄に送り出すことになるとしても、もう少しだけこいつに構ってやろうと今決めた。
「お前、名前は?」
「……レン」
「そっか、レン。いい名前じゃねえか。ま、せっかくだし、ゆっくりしていけよ」
ひょいっと抱き上げると素直に大人しくなったので、オヤゴコロっていいもんだなとひとりごちながら拠点に招いたのも、ただの気まぐれだ。
「……へえ、そんで、盗みに入った屋敷で拷問されて死にかけてるってわけか」
「……仕方ないだろ」
「はぁ、こんな子供がそんなことしないと生きられないなんて。時代は変わってもヒトはなかなか変わらねえな」
全く、こいつ自身の行動の結果地獄行きになるのはともかくとして、ヒトの本質なんて何千年経っても変わらねえもんだなと呆れてしまう。
「説教、しないんだな」
「あ? だって、ヒトは食わなきゃ死ぬんだろ?」
「まぁ……そうだけど。あんたは……死神は、俺を喰うのか?」
「はは、死神じゃねえし。それに、おれには食事は必要ないからな」
おれたちは所詮、ヒトを模して神に造られただけの存在だから。食事も、睡眠も、摂ることはできるが必ずしもなければならないものではない。
「死神じゃないなら、なんなんだ……?」
「んー? そうだな。敢えて言うなら、堕天使ってやつかな」
そう、神に造られ、天界から追放されて、ただここにいるだけの――
「へぇ……あ、『堕天使ルシファー』」
「はぁ!? なんでその名前……ッ」
まさかここでそんな名前を聞くとも思わず、飾りだけのはずの心臓が跳ねるような心地でつい大きく声が上がる。
「一時期教会で寝泊まりしていた頃に聞いたことがある……そっか、実在したんだ」
「いや……そんないいもんじゃねえぞ?」
おいおいおいおい、どんな風に伝わっているのか知らないが、いずれにせよいい話ではないだろう? おい、そんな興味津々でこっちを見るんじゃない!
「俺、馬鹿だからよくわからないけど、神様は俺を助けてくれなかった。そんな神様に喧嘩売った本人なら、信用できる」
なんだそれ。子供のくせに……いや、穢れきっていない子供だからこそ、か。
「……そっか。ありがとな」
「……ルシファ」
「待て、その名前は、ちょっと……」
嫌でも自分の立場を思い出す、とっくに捨てたはずのその名前。
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
「うーん、別に、名前なんて要らねえんだけど」
「……なら、ルー。俺はルーって呼ぶ」
ああ、なんでだろうな。こいつには敵わない。
「悪くねえな、好きにしろ」
「ルー」
「おう。レン」
「……ああ」
まさかおれが、ヒトの子供と名前を呼び合うなんてな。
気まぐれもたまにはいいもんだ。だが、そろそろ――
「なあレン、お前、このままここにいたら地獄行きだ。だから、もう帰れ」
「えっ……帰るって……」
「今ならまだ、お前は生きられる」
そう、おれはこいつにはまだ生きてほしいから。このまま地獄行きなんてあんまりだ。
「ルーと、このままここにはいられないのか」
「気持ちは嬉しいけどな。ここはずっといるべき場所じゃない。生きるか、地獄か、だ」
「…………」
「レン……。お前はこのまま生きていれば、あっちに行ける。もうここには来るんじゃない」
「いやだ、神様のいる天界なんて興味ない」
レンは頑なに拒否するけれど、だけど。
「おれを信用してくれてるなら、お願いだ。このまま地獄に行かせたくない」
「…………」
「レンに会えて、良かったよ。じゃな、もう来ないって約束だ」
「ッ……! 絶対また」
もう時間がない。何かを言いかけた返事を聞く前に、レンの魂をぶん投げた。
あれは単なる白昼夢だったかのように、またおれの単調な日々が戻ってきた。
ここから生還した者にここでの記憶は残らないけれど、おれの存在をごく当たり前のように受け止めて名前を呼んでくれたあいつのことは、おれにとっては忘れられない思い出になるだろう。
――なんて、思っていたのだが。
「おい、だからなんでまた死にかけてんだ」
「今度こそ死ぬって思ったんだけど……その瞬間に、ルーの顔が浮かんだからさ」
どうやらここでおれと触れ合ったレン自身の生命力が強くなっているようで、あいつはその後も何度か瀕死になってこちらにやってきた。毎回記憶は消えているはずなのに、おれの顔が浮かんだってなんなんだよほんと。
どうやらおれと縁ができてしまったせいで、無条件にこちらに来てしまうらしいからタチが悪い。以前は毒を飲まされて、今度は魔物退治だと? 全く、普通なら即死なんだがな。
とはいえ会うたび前向きに生きてきたのが伝わって、おれのオヤゴコロが満たされていくのが嬉しく思えたし、どこか嬉しそうにおれに懐いてくるから無理矢理追い返すのも心苦しい気がするというか。つか、おれが気を遣う意味もわかんねえけど。
そんなこんなで、またレンがやってきたのはいよいよ四度目、さすがにそろそろ本格的によろしくない。死にかけ過ぎにも程がある。
「レン、もう来るなって約束したよな?」
「え? 俺は、約束してない」
ああ言えばこう言う、あの子供が数年ですっかり知恵付けやがってさ。
「おれは、レンには生きててほしいんだけど」
「俺は、ルーと一緒にいたいって……わかってるんだろ?」
「…………」
何も知らないようなあの子供の顔とは違う、大人になろうとしているレンの苦しげな視線に言葉が詰まる。
ああ、これ以上ここに留めたら、本当にもうダメになる。
「ルー」
「レ……ぁ」
いつのまにか背丈が並んだレンに唇を重ねられ、ぺろりと舌で舐められながらそっと離れていく。
「ルー」
「…………」
ヒトにとってはあまりにも脆くて弱い場所である唇を重ねる意味も、その先に求められる行為も知っている。生殖活動を行うことのないおれたちだけど、身体の一部を触れ合う行為の心地良さは……理解、してしまった。
「なあ、ルー、お願いだ」
少しずつ探るように、ちゅっ、ちゅっ、と唇が重ねられ、流されている場合ではないというのに拒絶し切れず身体が動かない。――でも、ダメだ。
「……レン。これが、最初で最後だ」
「んっ……ルー……」
口づけに応える振りをして、もう死ぬんじゃねえぞとここぞとばかりにおれの生命力を流し込む――いや、さも加護を与えているかのような振りをして、最後だからとレンの感触を刻み付け――そのまま、吹っ飛ばしてやった。
もう、二度と来るんじゃねえぞ。
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