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久慈が自分の家族について誰かに語ったのはひょっとすると初めてのことかも知れない。簡単には大垣や伊勢谷、宮野梨沙に話したことがあるが、ここまで仔細を聞いたのはおそらく彼女が初めてだろう。どうしてそこまで話してしまったのか。やはり“斑目敦士”という名前が久慈の人生に刻まれてしまっていたからだろう。
「お辛いことがあったんですね」
自分の方がもっと大変だったろうに、西村優美はそう言って小さなため息をついた。
「人生ってやつは楽しいことより苦しかったり辛かったりすることの方が多いもんだと、俺なんかは思ってる。でもな、辛いばかりじゃないし、苦しいだけでもない。ほら、見てくれ」
久慈は席を立ち、カウンターに置いたままだったレシピメモを手にする。細かな字は亡くなった妻の、几帳面な性格がよく出ていた。
「これは妻の友人から、ここをやることをそれとなく知らせた時に貰ったものだ。ずっと渡しそびれていたらしい。別れてからも食べることの心配ばかりしていたと、その友人から聞いたよ。だから俺がこれは貰っておくべきだって。でもな、俺は言わなくても分かると思うが、料理なんざしたことなかった。せいぜいカップ麺かお茶漬け、後は卵かけご飯くらいだな。そんな俺がレシピ本なんて貰ってどうするって話だと、最初は思ってたんだ」
それでも唯一といっていい、手に入った妻の遺品で、ほとんど荷物らしい荷物を持ってこっちに来なかった久慈が大切に鞄に入れていたものだった。別に役に立てるつもりで持ってきた訳じゃない。自分が顔を向けなかった二十五年以上もの長い期間、彼女が何を考え、何を思い、何をしていたのか。それに思いを馳せる為の道具だった。
「それでも人生、何があるかわからんもんでな、今ではこうしてペンションをやりながら食堂を開いている。今じゃそっちの方がメインになっちまってるんだから、刑事時代の俺を知る奴らは大笑いするよ」
テーブルの上にはすっかり冷めてしまっていたけれど、おむすびと焼いたアジの干物がある。冷蔵庫からキャベツの和物を出して、漬物を添え、それにコンロの上の味噌汁を温めれば、何とか遅めの朝食にはなるだろう。少し硬くなるが電子レンジで温めてもいい。
「どうだい。少しだけでも食べてみないか?」
無理に勧めているつもりはなかった。
ただ、このまま斑目敦士の亡霊に取り憑かれたまま人生を終えたのでは、何とも悲しい人生のように久慈からは思えたのだ。本来なら大好きだった食べるという行為、料理という情熱、それらがたった一人の男の手によって台無しにされてしまった。刑事として様々な事件に関わってきたが、どの事件も加害者がいて被害者がいる。どんな理由があったにせよ、被害者は本来なら必要のなかった人生の代償を支払うことになる。それは小さな傷では決してなく、その後も大きく歪めてしまう、悲しい出来事だ。だがそういった被害者に対して出来ることは少ない。そもそも警察は何も面倒を見ちゃくれないし、行政だって同じだ。一部の支援団体の手はあるものの、基本的に全て自分で背負うしかない。
だからこそ、何か立ち直るためのきっかけが彼女に必要なことを、久慈はよく理解していた。
「無理ですよ。どうせ、食べられません。もったいないです。こんなに美味しそうなおにぎり」
「おむすびだ」
「え? おにぎりじゃないんですか?」
「俺もな、最初そう言ったんだよ。けど、あいつは……亡くなった妻は、これはおむすびですと言って譲らなかった。握るからおにぎりでいいじゃないか。そう思うだろう? けど彼女は言ったんだ――私のは握らないんですよ、って」
レシピの一番最初のページに書かれていた文言が、これだった。おむすびは握らない。握ってしまったらご飯同士が硬くくっついてしまって、口に入れた時に綺麗にほぐれないから、と。
「握らないのか。だから、おにぎりじゃない」
優美の目が、少し変わった。彼女の枝を集めたような右手の細い指が、皿の上へと伸びる。白い米粒同士がふんわりと俵を形作り、それの下にややしっとりとした海苔が敷かれていた。流石にもう開封したばかりのパリパリ感はない。それでも彼女はその海苔をゆっくりと持ち上げ、左手も添えて、自分の口へと近づける。
「これ、中身は梅干しですか」
「よく分かったな。他にも昆布の佃煮、牛そぼろもある」
「駄目だったら、すみません」
「いいよ。それより、冷たくなっているが、いいのか?」
「美味しいご飯は冷えていてもそれなりに美味しいものです。何よりおにぎり……いえ、おむすびになっていると、また違うんですよね」
柔らかく温かい視線が、彼女が自分で手にしたおむすびに注がれていた。彼女は注意深く口元に持っていくと、小さく開け、一口、齧った。すぐに口を押さえる。
「大丈夫か」
だが彼女は何も言わず、口をもごもごとさせている。
――おい、しい。
彼女の口が、声を出さずにそう動いた。すぐにふた口目を食べる。今度はもっと沢山、頬張った。ご飯はほろほろと崩れ、彼女の口へと吸い込まれていく。
「おいしいです。これ、おいしいです」
西村優美は泣いていた。
「ゆっくり食べなよ。誰も取ったりしないし、何ならまだご飯は残ってる。新しく炊いてやってもいい」
「でもこれ、おいしいんです」
すぐにその梅干しの一つを食べてしまうと、彼女はもう一つ、今度は手で鷲掴みにして、大きく頬張った。
「牛そぼろ! ああ、しっかりと煮込んで肉と醤油、それに味醂。砂糖も少し入っているかしら。ご飯によく合います」
おむすびだけじゃない。テーブルに置いたほうじ茶のペットボトルを開けると、勢い良くそれを飲み干す。それから箸を取り、アジの干物をひと切れ、摘む。口に運ぶと左手で一度覆ったが、
「おいしいです。ああ、久しぶりにちゃんと魚を食べてる」
そう言って微笑むと、今度は箸で干物を丸ごと掴んで、脇から大きくかぶり付いた。
「食べるんだったら、味噌汁も温めるよ。それからキャベツの和物もあるし。何だったらもっと他にも」
「それじゃあ、おむすびを下さい。あと、よかったら一緒に食べませんか?」
涙で潤ませながら、優美はそう言って久慈に笑いかけた。(了)
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