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イチョウ切りにした茄子と揚げを入れた鍋に、仕上げの合わせ味噌を溶いていると表で車の停まる音がした。久慈がガスコンロの火を止めたところでちょうど玄関のドアが開けられ、息を切らせた宮野梨沙と伊勢谷が飛び込んでくる。
「どこですか?」
「ああ、奥の客間だ」
「先生、早くして下さい」
診察鞄を手にした宮野は険しい表情をしたまま靴を脱いで上がると、もたもたとしたまだ眠そうな伊勢谷を置いて先に部屋に向かう。伊勢谷の方は久慈を見て軽く首を振ったが、その意味はよく分からない。参ったな、あるいは、朝から敵わん、そういったジェスチャだろうか。
久慈はそれに「宜しくお願いします」と頭を下げ、味噌汁の鍋に蓋をする。土鍋用のタイマーがもうすぐ音を鳴らしそうだ。中では膨らんだごはん粒が蒸気の中で静かに踊っていることだろう。
レンジで軽く蒸したキャベツの千切りをボウルに出し、それに細かくした塩昆布と少量の酢を和える。隠し味にオリーブオイルとあるが、それが“少々”と書かれている。この少々だったり、気持ちだったり、ひと摘みだったりといった単語は妻の書いたレシピだけでなく、どこでもよく目にするものだが、料理の素養のない久慈のような人間にとっては実に悩みの種だった。いつも多いのか少ないのか、分からないままに加えている。その時々で僅かな味の変化があるのは、久慈の料理センスの無さに起因していた。
小鉢に出来上がったキャベツの和物を盛り、それにラップをしておく。自分用にも少しだけ小皿に取り分け、小鉢の方は冷蔵庫へと入れた。
小さな電子音が鳴り、ご飯が炊けたことを知らせる。コンロの火を消し、カウンターの上のタイマーに蒸らし時間を設定すると、次は冷蔵庫からアジの干物を取り出した。
――干物なんて外に置いておけばいいだろう。
いつも一つ一つ丁寧にラップで包み、それを冷凍庫に仕舞っていた妻を見て、久慈が放った言葉だ。それに対して妻は何も言い返さなかったが、レシピ本の保存の項目にこう書かれていた――美味しく食べるためにすぐに食べない干物は冷凍して保存しておくこと――と。
――美味しく食べる為。
それは刑事であった久慈からすれば、生活の中に全くなかった考えだった。とにかく一秒でも早く胃袋を満たして、次なる活動のエネルギィ源になりさえすればいい。多少味が悪かろうが文句は言わない。立ち食い蕎麦にコンビニのおにぎりや菓子パン、チェーン店の安い肉丼、そんなものが久慈たちの飯の定番だった。
けれど、思い返せばいつ何時、家に戻っても妻は苦笑こそすれ文句は言わずに温かくしたご飯と野菜、肉や魚、時にはフルーツといった、健康を考えた食事を提供しようとしていた。ただそれに対して「美味い」と言ったことは一度もなかった。そういうところだ。久慈が、大切なものを失ったのは。
ほんの些細な言葉がなかったばかりに、溝は深くなり、やがて取り返しがつかないほどにまで広がってしまっている。事件の捜査でも初動をミスれば犯人まで辿り着くことが出来なくなったりするが、それは何も仕事ばかりの問題ではなく、久慈にとっては家庭、いや、人生そのものについて起こってしまったものだった。
コンロに火を付け、魚焼き器に載せた開いたアジの干物を二枚、焼き始める。すぐに魚臭い、それでいて唾液が出てくるような旨そうな脂の匂いが立ち上る。まだ朝食を取っていないだろう伊勢谷には毒だろう。こんな急患でもなければ朝飯くらいならご馳走してやりたいところだ。
その魚が焼けるのを待ちながら、何度か奥の扉を眺めた。微かに宮野と伊勢谷が話しているのが聞こえるが、話しぶりからすると救急車を呼ぶようなものではなさそうだ。
アジは薄く、すぐに火が入る。気をつけていないと焼き過ぎて不味くなってしまう。その焼き時間もレシピには丁寧に書かれていた。サイズと肉の厚み、脂の具合から裏返すタイミングまで記載されている。ただ利用する側の久慈にすればその些細な違いでどれくらい味が変わるのかがまだよく分かっていない。仕方なく、いつも「分からない場合には」という注釈に書かれた部分の焼き時間を使っていた。
トータルでは約五分だ。出来上がりを見てから、追加で焼くかどうかを決める。
――もうそろそろだ。
そう思った時、ドアが開いた。伊勢谷が大きな欠伸をしながら出てくる。
「どうでした」
火加減を調整し、すぐにコンロを消せるようにツマミに手をやりながら尋ねる。
「うーん、特にこれといった問題は見つからなかった。あれは疲労だな。それに空腹。おそらく数日食べてないんじゃなかろうか」
「空腹だと? あれか。若い女性にありがちな無理なダイエットとか、そういうのか」
「彼女はそういうんじゃないと思いますけど」
そんなところだろう、と伊勢谷が言いかけたのを遮って不機嫌な顔をした宮野はさっさと外に向かう。開院の準備があるのだろう。
「じゃあ何だ? 食べられない理由でもあるってのか」
その宮野に久慈は尋ねた。
「化粧をしていなかったでしょう?」
一秒ほど立ち止まってからそう言った宮野は、久慈の表情をじっと見てから「分からない?」と首を横に振る。
「ダイエットしたいのは何の為です? 綺麗になりたい、あるいはその姿を見せたい誰かがいるからでしょう? そういう女性が自分の部屋ではなく、外を出歩いている時にノーメイクなんて考えられないわ。ほら、私だってちゃんとしているでしょう?」
ちゃんと、というのがどこまでのことか分からないが、確かに宮野梨沙は化粧をしていた。
「それじゃあ何だって倒れるほどの空腹になるってんだ」
刑事時代にも理解出来ない動機で殺人に至った加害者が何人もいたが、こと女性のこととなると久慈にはさっぱりその心理、感情が分からない。よく結婚できましたね、と後輩たちから言われたが、久慈の場合は半分お見合いみたいなものだった。そうでもなければずっと独り身だっただろう。
「それを調べるのは私の仕事じゃないわ。ね、そうでしょう、元刑事さん?」
何とも嫌らしい返事だ。
久慈はふん、と鼻を鳴らすとコンロの火を止めた。ちょうど良い具合に焼き上がったアジの干物はその身の上で脂をパチパチと弾かせていた。
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