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9
「あんたの事情は分かった。だけどな、死にたいという人間に、はいどうぞ、とは言えない」
久慈は手帳を閉じると、立ち上がってそう言った。
「それは、そうですよね」
西村優美は申し訳なさそうに、けれどそこまで気にしている風でもなく頭を軽く下げる。
「けど、その斑目だがな、あんたも刑事から聞いただろう。あいつは有名な毒殺魔だった。結婚詐欺師の中でも特殊な奴で、殺人の捜査が主な仕事だった俺たち一課の人間が追いかけていた特別な犯人だったんだ」
え、と優美は口に手を当てる。流石にこの発言には驚きを隠せないようだ。
「俺は元刑事だ。今でこそこんな田舎でペンションなんざやってるが、数年前まではバリバリ一線で働いていたよ。その斑目を追いかけていたのも俺がいたチームだった。詐欺師を追う二課の連中との合同捜査だ。けれど奴は巧妙で、付き合った女性を毒殺、あるいは病院送りにしているにもかかわらず、証拠を掴むことは出来なかった。警察ってのは公権力を謳っているが、その実、事件がないと動けない。事件があっても証拠がないと引っ張れない。捕まえた時には誰かが傷ついたり死んじまっている。それで遅いやら何やってたんだやら、文句を言われる。因果な商売さ」
「あの、本当なんですか」
「ん? 元刑事ってことか?」
「いえ、その……あの人を追いかけていたって」
「ああ。ここで嘘を言っても何の得もねえだろ」
「そうですけど」
久慈が元刑事で、しかも斑目敦士を追っていたと分かったからだろうか。今までよりも優美の表情が曇りがちになり、何度も目が彼の顔の上を滑った。
だがそういう目線には慣れている。疑う側である刑事に対して良い印象を持つ人間はいない。いつだって怪訝な眼差しを向けられ、それでも何とか事件を解決し、屈辱を晴らしたり、悲しみの連鎖を止めたり、不幸を増やさないようにと努めてきたつもりだ。
けれどその久慈自身が、不幸に巻き込まれてしまった。それが五年まえのことだ。
刑事として日々様々な殺人事件の捜査にスニーカーの底を減らしながら汗を拭っていた頃だ。追いかけていたのは通称『ポイズンシェフ』こと斑目敦士で、その動向を複数の刑事で監視しつつ、尻尾を出すのを待ち構えていた。だが奴は巧妙な男で、証拠が残るようなヘマはしない。
結婚詐欺師として注意喚起することは出来ても、それでは逮捕に至らないし、女が身を引いたらまた次の獲物を見つけるだけだ。イタチごっこよりも酷い状況が丸二年、続けられていた。被害者の数も金額も他の結婚詐欺師に比べると少なかったが、奴には致命的な習性があった。それが毒殺癖だ。斑目敦士にとって結婚詐欺はおまけみたいなものだ。奴は恋人に毒を盛り、徐々に弱っていく姿を楽しんでいた。しかも毒殺が一番証拠が残りづらく逮捕された後でも公判を維持することが難しいので不起訴、あるいは起訴猶予といった実刑判決にまでなりづらいというところまで考えて、毒を用いていた。
おとり捜査のような真似は警察の捜査の範疇を越えている――何度もそう警告を受けたが、久慈たちはこれ以上の被害者を出したくない思いで押し通した。
だが、また被害者が出た。それも久慈のよく知る人物だ。何のことはない。一人暮らしを始めて半年ほど経った彼の一人娘だったのだ。
久慈は家庭をほとんど顧みない、仕事一辺倒の人間だった。けれどそれは何も久慈一人の特別な問題ではなく、同僚の大半がそういった人間ばかりだった。刑事というのは仕事人間でないと務まらない。それこそ家庭を大事に、捜査の途中で靴を脱ぐような奴に安心して背中は任せられない。そんな空気をずっと吸っているのだから、必然、誰もが似たような鈍さを持つようになる。
そんな久慈でも娘が生まれた時には病院に駆けつけた。先輩がそんな時くらいしか顔を出せないだろうと、無理に行かせてくれたのだ。ただ久慈が駆けつけた時には既に出産を終え、保育室へと移動させられた後だった。
けろっとした顔の妻から「しょうがないわねえ」と笑われたものだが、今でもあの時、産声を聞けていたらもっと家族の方に顔を向けてやれたのだろうかと思わなくもない。親の自覚というものから縁遠いまま、娘はこの世を去った。享年二十五歳。あまりにも短すぎる人生だった。
「どうして明美がこんなになったと思ってるの!」
病院に駆けつけた時には既に息を引き取っていた娘を前に、涙を浮かべて今までに見せたことのない怒りの形相で掴みかかってきた妻は、久慈を二度、三度と殴りつけた。彼女にこんな力があったのかと驚いて倒れた久慈は、その時にしていた腕時計を割ってしまった。けれど割れたのは時計のプラスチックだけじゃない。家庭そのものだった。娘の死が、今まで辛うじて家庭という形を保ってきた久慈家にとって致命傷となったのだ。
久慈は娘の敵を打とうと必死になって事件現場を駆け回り、斑目の証拠を掴もうと這いずり、床の染み一つ一つを舐め、益々家庭から遠ざかっていった。その間にどんどん妻の心は壊れていき、ある日帰宅すると、電気が点かなくなっていた。妻の姿はなく、全ての支払いはされておらず、冷蔵庫の中には腐ったキャベツと牛乳と卵が異臭を放ち、さながら死体発見現場のような有様になっていた。
リビングではなくキッチンのテーブルの上に離婚届が湯呑みを重しにして置かれ、署名とハンコをお願いしますという簡素なメッセージだけが添えられていた。
家庭を失った久慈は上司の命令でしばらく前線を離れることになった。それでなくても体はボロボロで、まともに家に帰って寝ていないままずっと捜査を続けていたものだから、緊張の糸が切れた途端に病院の世話になることとなった。
妻が自殺したことを聞いたのは、病院から退院する前日のことだった。
実家に戻っていた妻を友人が見舞いに訪れると、首を吊っていたそうだ。前日まで全然そんな素振りもなかったので、誰もが驚いた、と言うが、久慈には何となく理解することが出来た。いや、理解なんて言葉を使っていいかどうかは分からないが、意外だとは思わなかった。
その半年後、久慈は刑事を辞めた。警察に別の仕事で残る道もあったが、刑事以外に何が出来るとも思わなかった。
無職となった久慈は元同僚が働いていた警備会社でしばらく世話になったが、それも長続きはしなかった。
何もやる気が起きない。生きている実感もない。あまりにも刑事として生きすぎた為に、それ以外の生活が分からなくなっていたのだ。
その久慈に声を掛けてくれたのが畠中だった。ただその時点では「そのうちに遊びに行くよ」と返事をしただけだった。畠中が亡くなったと聞かなければ、今でもあの東京というゴミゴミとした街で、適当に日々を暮らしていたかも知れない。
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