4人が本棚に入れています
本棚に追加
/56ページ
1
コンソメのいい匂いが漂ってくる。それで目が覚める。バターで何かを焼いてる匂いもする。ガガーっという音の後、しばらくしてコーヒーの香り。
富永奏音は目を閉じたまま、その香りを味わう。
ここはNYのセントラルパーク脇のアパート。
恋人が早起きしてクロワッサンを買ってきてくれ、まだ眠っている私のベッドに腰掛け、甘いキスで起こしてくれる。
と、いいんだけど。
カノンはスマホのアラームが鳴るのを聞いて、腕を伸ばした。
仕方ない。恋人はクロワッサンを持ってきてくれないし、ここはNYの公園脇のおしゃれなアパートでもなんでもないけど、起きるか。
まだ少し肌寒い3月の朝。ベッドから出て、ロングTにカーディガンを羽織る。
眠い目をこすってパーティションのカーテンを開くと、カウンターの向こうで週に数度やってくるバイトが「おはよ」と言う。
カノンも「おはよぅ」とあくびをしながら言った。
雑居ビルの一室を居住空間にしてしまっているが、本当はちゃんとカノンの家は別のところにある。そこに戻るのが月に数度で、いつもは仕事場でもあるビルで寝泊まりしてしまうというだけ。
でも元飲み屋だった店舗の居抜き物件なので、カウンターと小さいキッチンと、大きくないが冷蔵庫もあり、テーブルがあった場所に中古ベッドを置けば1人で暮らす分には問題はなかった。カウンターでは事務仕事ができるし、奥には隣にあるカノンの診療所で使うものも置いておける。
そのカウンターには、マグカップに入ったコンソメスープと、皿にアスパラベーコンとスクランブルエッグがあった。
「パン、今焼けるから」
ユノが別のカップにコーヒーをドボドボと入れてくれながら言った。
カノンよりいくつか年下らしいが、背も体格もカノンより一回り大きく、何かあったら壁にはなってくれそうだ。袖をたくし上げた腕には入れ墨があり、彼の過去を物語る。
料理人としてはバイト代は払ってないが、たぶん本人が好きでやっている。
「ありがと」
パンはフライパンで焼いている。トースターがないから。
シャキシャキ感が残るアスパラと、カリカリに焼いたベーコンを頬張ると、目が覚めた。
「これ、仕事にすればいいのに」
カノンが言うと、カウンターの向こうのユノは苦笑いする。
ユノはコンビニの夜勤か、夜間清掃作業なんかで、カノンの仕事場の近くにいるときは早朝に寄ってくれる。業者用の市場に顔を出して新鮮な素材を手に入れ、カノンのところで朝食を作って食べて帰っていく。
自分のためには余り作らないらしく、他人のためなら手の混んだものも作る気になるらしい。
パンが焼けて、ユノも自分の皿を出して、カウンターの向こう側からこっちへやってきた。
スツールに座って並んで食べる。
ユノはトーストにアスパラベーコンとスクランブルエッグを乗せて、ぐいっと半分に折って、強引なサンドイッチにして頬張る。それもまた美味しそうで、カノンは自分もパンに乗せて頬張ってみた。きれいに並べておしゃれに食べるのもいいけど、これはこれで豪快においしい。
「天才だね、本当に店出せると思うよ」
カノンが言うと、ユノはヘヘッと笑う。
「これは趣味だから。仕事にしちゃうと楽しめなくなるだろ」
「でもコンビニバイトが天職ってわけでもないでしょ?」
そう言うと、ユノは肩をすくめる。
「飽きるまではやってみる。今はまだ面白いこともいっぱいあるから」
ならいいけど。カノンはうなずいた。
「昨日はコンビニ強盗は来なかったの?」
「誤解してるみたいだけど、毎回、強盗が来るほど、治安が悪いエリアじゃないからな」
ユノはちょっとたしなめるみたいに言ったが、カノンは笑う。
「そうね、2回に1回ぐらいかな。で、昨日は来なかった?」
「来なかった。昨日は平和だった。こっちはどう?」
「いつもどおり。診療所を閉める前ぐらいに、酒瓶で頭を殴られて頭から血を出してる人が来たぐらいかな。縫って薬もあげて帰した」
「ああ、あれな。酔っぱらい同士の喧嘩だから、問題ない」
「現場見てたの?」
「見てた奴が店に来て喋ってた」
「怪我した人は知ってる人?」
「いや、知らね」
「そっか。ちゃんと薬を飲んでくれるといいんだけど」
「あんまり深入りしなくていい。あんたは、ここで診療所やってるだけで充分役立ってるから。俺、帰るけど、なんかやっとくことある?」
ユノが皿を片付けながら言い、カノンはコーヒーを飲んだ。
「あ、じゃぁゴミ、出しておいて。まとめてあるから」
「OK」
ユノはカノンの皿も洗って、プラスチックの水切りに入れる。これもユノが買ってきたものだ。キッチンはユノの使いやすいようになっている。カノンはいつもコンビニか宅配で食事を取るから、キッチンはほぼ使わない。
「明日、薬の納入、よろしくね」
カノンが言うと、ユノは「2時な」と、うなずいた。
彼は主に、カノンの診療所の用心棒的な仕事をしてくれていた。
カノンが今いる拓良地区は、外国人が多く、酒と風俗とドラッグとその他諸々で構成されている。そんな場所には富めるマフィアやギャングに、貧しい路上生活者や家出少年少女、一発当てたいチンピラたちが集まる。混沌とした街だが、そこにはルールもあるらしく、ユノはその中でカノンの事業を守ろうとしてくれていた。
特に薬剤の扱いは、事業が始まった当初は無名でもあったので誰にも目をつけられていなかったが、カノンの診療所が有名になるに従い、薬が盗まれそうになったり、強盗に遭遇したりということが起こった。
だろ、とユノは言った。
こんなところで、まっとうなことをしようと思ったら、用心に越したことはないんだよと彼は薬剤管理の最善策を考えてくれた。
在庫は少なめにし、重要な薬は別のところで管理する。薬の配給は拓良地区の外で行う。診療所への配達は俺がやってやるよと彼は言った。その分、バイト代はくれ、と。
最低時給でよければとカノンが言うと、ユノはOKした。その前にも、彼は薬剤管理のPC入力を手伝ってくれていて、それも最低時給で働いてくれていた。今ではその仕事は、別の子がやってくれている。
いろいろなバイトを掛け持ちする彼は、毎日そこそこ忙しそうで、そう豊かな感じもしなかったが、特別貧しい感じもなかった。拓良地区の隅にある古いアパートの一室に住んでいて、拓良地区の様々な事情に詳しく、そして元ギャングだという話だった。
料理人になればいいのに。
カノンはビルを出ていくユノを窓から見下ろしながら思った。
ユノはビルの下のゴミ箱にゴミを捨て、それから振り返ることなく歩いて行く。
カノンはユノが見えなくなってから、もう一度伸びをした。
診療所の方の部屋のドアにかけた看板を裏返し、『OPEN』側に向ける。
『拓良地区青少年保健医療センター事業』、通称『スレギ・ポゴンシル』が開く。
最初のコメントを投稿しよう!