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生なる世界の話
濡れて光る肉の部屋に、その男はいた。
床や壁や天井や家具や衣服や書物や電化製品すべて、人間のソレに似た目と口がついていて彼を睨んで罵る。
「お前は、ばかだ」
「ばかは、死ねよ」
「死ぬと、楽だぞ」
「楽だと、幸せさ」
「幸せは、来ない」
「来ない、明日も」
男は頭を抱えて呻いて、うずくまる他ない。
外でもあらゆるモノが、肉のカタマリに映った。
血色の空の下で歩道に並ぶ街路樹は血管を脈打たせ、やはり陰気な目で彼を睨めつけながら口々に悪態づく。歩道の敷石も踏みつけるたびにブヨブヨとうごめいて、建物も街灯も横切っていくバスもみな敵意を剥き出す。
無機物でこうなるなら、生物はどうだろう。
「世界が異常に見えるのはアナタだけじゃありません」
心療内科医らしき存在は男に優しく語りかける。
頭部が電気ポットで鼻は給湯口で目が液晶表示部だ。人間や動物は逆に命のない機械に見えているのである。
「目も耳もおかしい。いえ頭が変なんでしょうね僕は」
「精神不安が原因だ。アナタ自身は至って正常ですよ」
「トラヴァースさん、気休めが欲しいんじゃない僕は」
「そう治療のために、話し合って方針を決めましょう」
今まで男がかかってきた医師と同じ台詞である。
「半年前に事故……この情報だけじゃ原因は……」
問診票を指差してトラヴァース医師がタメ息をつく。男は筆記用具を持つのもイヤで端的に書いていたのだ。
「運転中にオカマ掘られて頭を打ってからですよ」
「普通のイスです。おかけになっては?」
「僕の知る限りだとイスに命なんかない」
「生きていても変じゃないと思ってみませんか?」
「時間の無駄だな。もう帰らせてもらう」
「待って処方箋……抗不安薬……出しておきます」
処方箋を引ったくると男は大股で診察室を出ていく。
異形に見えぬモノも少しある。
鏡面やガラスや紙の本などだ。
鏡面に映る男の首から上は大きなコンセントプラグ。このままだといずれ本当の顔も忘れてしまうと恐れた。
男は今や無人の実家でアルバムを引っ張り出す。
写真ならば人としての自分の姿に会えるかもという、希望的観測にすがっての行動だがソレを見て絶句する。
昔のどの自分も今と同じ顔をしていた。
背景もまた肉が物質を支配する世界だ。
「死ね、死ねお前」
狙いすましたように壁かけ時計は囁く。
とうとう男は絶望的な領域へ踏み込む。
取り壊し予定でほぼ無人の雑居ビルの屋上に立つと、フェンスの向こう側で車両が行き交う道路を見下ろす。
「これは啓示か? 神が僕に命を返せと仰せなのか?」
躊躇ってしまわないうちに男は身を投げた。
事前の調べによれば落下の最中に意識を失うはずが、息苦しいばかりで一向に安息は訪れずに路面が近づく。
そして予想に反するトランポリンの柔らかさに驚く。
肉のアスファルトが男を優しく受け止めていた。
逃げ出したかった世界に救われてようやく理解する。
「そういうことか」
すべて元からこうなのだ。
つまり普通を異常と思い込んでいたにすぎない。
事故のショックによって脳の正しい認識感覚を失い、なんでもないことに対して騒いでいただけなのだろう。
「わかってみれば単純だな」
受け入れてからが再出発。
男の生活は好転していく。
トースターの女と巡り会って愛し合う。
アパートを引き払い、売る予定だった家で共に住む。結婚を機に職場も変え、やがて息子も授かって育てる。
楽ではないが充足的な気分を男は得た。
己も含めて生きている者を生きていると信じられず、無機物に置き換えて心を納得させていた弱さに気づく。そんな過去との決別を意識し始めると幻が除き去られ、あとには何もかもおぞましくも愛しい肉の異形ばかり。
肉という生に満ちた美しい世界だけが広がっている。
「とても素敵な夢なんだね? アーサーくん」
長いブロンドをかき上げて青年医師が笑む。
辛うじて人間のカタチに留まっているだけの肉塊は、病室のベッドで眠ったまま呼吸以外の運動を行わない。
「そこは肉の楽園なのかい? さしずめアヴァロンか。いやさ……アチシの行きたい場所に最も近いのかもね」
答える術がない相手にマイク・トラヴァース医師は、まるで会話が成立しているかのように語りかけ続けた。
「うん……アナタはネジが外れてるってみんな言うさ。でもアチシはアナタの価値を誰より知ってるから守る。お金のことなら負担するから心配しないでちょうだい。進んで実験台になってもらって感謝してもしきれない」
患者の額に貼り付けていた小型装置を取り外す。
虫のスカラベそっくりで時おりうごめく装置だ。
「じゃ……またね……ゆっくりお休み、ペンドラゴン」
半年後、ついに男は起き上がらぬまま永眠する。
全身の筋肉が腫れて肉袋とも呼ぶべき最後の有様で、解剖担当の外科医でも原因は究明できず仕舞いだった。
身元調査の手が入るも特筆すべき情報もなく終わる。アーサーという男は天涯孤独で何ひとつ残していない。
マイク・トラヴァースが回収した夢の残滓の他には。
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