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殺人シェフの話
そのホテルは海沿いの崖の上に立っている。
長いこと潮風を浴びてところどころ錆びているのに、最低限の整備も行き届いておらず外観がみすぼらしい。
「ここに泊まった客は帰る気が失せちまうらしい」
ダグラスは仏頂面で言いながら駐車場に車を停めて、フィルター手前まで吸ったタバコを灰皿に押し付ける。
助手席のルイーズが曇り空のもとに出て溜息をつき、廃病院だと説明されても違和感なき陰気な建物を睨む。
「小さくてオンボロで快適そうには見えないけど」
しけたカップルのようなこの男女は記者である。
「噂じゃメシが美味いんだとよ」
「じゃあ食レポでもするわけ?」
「まさかだルイーズ。グロリア・キャメルのことは? 美食家きどりの元歌手が道楽ついでに消息不明ってな」
「ネタ的に賞味期限ギリギリね」
「それでも単独取材こぎつけるのに苦労してんだ」
「徒労に終わりませんようにって祈ってるわダグ」
会話の間にダグは新たなタバコを吸い終わっており、
「元は取るさ」
と力強く宣言して投棄したフィルターを踏みにじる。
ふたりはエントランスでチェックインを済ませると、少量の荷物をボーイに運ばせて予約した部屋へ向かう。
「いつまで居座るの?」
「ん? 三日の条件さ」
「経費で落とせる限界よね」
「そういう話でまとまった」
当然のごとく相部屋だが両者にはザラにある状況で、互いに業務上の相棒と割り切っていて妙な関係はない。
さっさと準備してすぐレストランへと足を運ぶ。
席について程なくしてギャルソンが注文をとる。
「アペリティフは如何ですか?」
「え? じゃあオマカセで頼む」
ダグとルイーズは柔らかな口あたりのシェリー酒や、お通しの魚卵とクリームチーズのカナッペをいただく。
「おいおい意外と本格的だな?」
「ドレス着てくるんだったわね」
「お前の正装なんか想像できん」
「アンタこそスーツ持ってる?」
何気ない軽口を交わしているうちに前菜が届く。
「オードブルヴァリエでございます」
サーモンやオマール海老などの魚介の盛り合わせは、塩味と酸味の調和によってシェリー酒に深みを与える。
「なんかさっきより濃厚で別の酒……みたいだな」
「うん最初けっこうアッサリしてるって思ってたけど、カナッペがマイルドにしてたのね……口の中で変わる」
一笑に付していたはずの食レポをやってしまう。
「ポワソン・舌平目のムニエルでございます」
バターが香ってほどける白身魚の食感に舌鼓を打つ。
「レモンのソルベでございます」
甘さ控えめ氷菓子で味覚をリセットしたらいよいよ、
「ヴィアンド・牛フィレのロッシーニ風でございます」
神々の血に濡れたメインディッシュのご尊顔を拝む。
シャトーブリアンにフォアグラに黒トリュフという、生物界の宝を惜しげもなく合体させた兵器が脳を焼く。
「ご一緒に赤ワインもオススメです」
「もってきて。あと、シェフ呼んで」
夢心地の男女の前でシェフは一礼する。
「ガブリエル・ヴィルフランシュですぅ」
レモン色の巻毛で痩せっぽちの青年だ。
うつむきがちで憂鬱そうな表情だった。
「若いね……失敬……美味さに殺されそうだ」
「ホメられるようなことしてませんよボカァ」
ダグは自然体を装って次のように切り出す。
「最高さ……彼女……グロリアも夢中だったろ?」
「どどどどのお客さんのコトですかああああっ?」
天使の名をもつ青年が露骨に視線をそらす。
「お客さんのお顔とお名前は知ってもすぐ忘れてます。そうすることにしてるんです覚えてたらシンドイから」
「人間ってのは人間にとっても美味しいのかな?」
とルイーズも参加してきて悪戯っぽく笑う。
「草食動物の肉が美味いなら菜食主義者も美味いよね。ドイツ人がユダヤ人を嫌ってたのは不味いからなの?」
「そいつぁナイスなブラックジョークだねぇルイーズ。なぁオレたちゃ三流記者であって別に警察じゃあない。でもヘタな警察よか情報収集が得意だって自負はある。証拠なら既に色々と出揃ってるんだぜガブリエルくん」
「ロイヤルストレートフラッシュよ」
「買い取ってくれるだろ? 三ツ星シェフくん?」
青年が青ざめて滝の汗を流して奥へと引っ込む。
「お代は結構です」
「もっと毟るぜぇ」
三ヶ月後、ダグとルイーズは部屋で寝転がっていた。仕事関係や、身内からの連絡をいっさい無視し続けて。
「ウチら何しに来たんだっけ?」
「トリュフで育てた豚は最高だって知ってるか?」
互いに丸々と肥え太って以前までの面影がない。
部屋の肉壁が牙を生やして全方位から迫ってきても、逃げる気力も湧かないようで黙って噛み潰されていく。
「ボカァ悪くない」
青年シェフは厨房の隅で座り込む。
「悪いの、ホテルだよ」
「料理長、お客様です」
ギャルソンの声に、縮こまった背中が反応する。
「食わせて食わせんと……みんな食われるもぉん」
ふらつきながらも、立ち上がって仕事にかかる。
「仕方ないんだボカァ……ゴハンしか作れないもぉん」
プロは、厨房で泣けない。
料理に、涙は落とせない。
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