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五月八日にノーマンは死んだ
五月八日にノーマンは死んだ。ノーマンは君の大切な友達だった。
君とノーマンが仲良くなったのは、君が小学六年生の二学期くらいのことで、その頃君の家は、めちゃくちゃになってしまっていた。
君の父さんは友人と会社を経営していたのだけれど、業績が悪化した途端その友人は、会社の権利書を持って逃げてしまった。
父さんは君の住んでいた家を担保にしてお金を作ったけれど、それでも仕入れや経費の支払いが賄えなくて、結局会社を畳むことになった。
新しく事業を起こして必ず借金は返すと父さんは母さんに約束していたけれど、その父さんともやがて連絡が取れなくなる。
あとに残されたのは君と母さんと、担保にされた家だ。実家の援助だけでは到底資金繰りは厳しく、借金返済を催促する電話や訪問に母さんはすっかり参ってしまい、ヒステリックに叫んだり大声で泣いたりするようになった。
そんな母さんは、君と口を利くのも顔を合わせることすら嫌がるようになった。君との間に残されたコミュニケーションは、食卓に置かれた一人分の食事と、洗って畳まれた給食袋だけ。
君たちの住んでいる街は小さくて、大体が家族ぐるみで顔見知りのようなところだ。勿論、君の家に借金取りが来ているなんて噂はあっという間に広まる。
表向きはみんな心配して君や母さんに声を掛けてくれたけれど、きっとそんな可哀そうな君たちを見て、自分の家は何も問題がなくて良かったなんて思っているんだろうな。あの人も、この人も。その子も、あの子だって。君はそう思うようになっていった。
街の人たちはみんな、心配そうなお面を付けたのっぺらぼうの化け物だ。どの顔も気味の悪いのっぺらぼう。
ある朝君は、ついに母さんまでもがのっぺらぼうで台所に立っているのを目撃してしまう。思わず悲鳴を上げてしまったのは仕方の無いことだ。
のっぺらぼうに怒りのお面を付けた母さんは、悲鳴を上げた君へ手近にあった有りったけのものを投げ付け、君は陶器の茶碗で目の上を負傷した。
幸い目そのものに怪我は無かったけれど、目の周りというのは出血量が多く止血も難しい。君は何とか自分で救急車を呼び、病院へ向かった。
家の前に救急車が停まってみろ、近所の人たちが何事かと集まってくるのは語るまでも無いだろう。
血だらけの君が救急車に乗せられ、髪を振り乱した母さんが茫然とそれを見送る。これほどのゴシップなんて、お面を付けたのっぺらぼうたちの良い餌に決まっている。
君の家の壁中に、のっぺらぼうたちのヒソヒソ声が染み付いてゆく。母さんはお面を外して固く耳を塞ぐと、それきり自分の世界から出て来なくなった。
君を取り巻く環境が壊れてしまった時、手を差し伸べてくれたのがノーマンだった。
ノーマンは、腹痛を訴えて学校の保健室で休んでいた君のベッドの傍らに座り、「友達になろう」と言ってくれたのだ。
六年生で一番の思い出になる筈の修学旅行にすら行けなかった君に、ノーマンは「一緒に図書館へ行こう」と誘ってくれた。
台所にも立てなくなった母さんの代わりに、「じゃあカレーライスを作ってみよう」と提案してくれたのはノーマンだったし、給食ナプキンにアイロンを掛け始めたのもノーマンだ。
君が小学校を卒業する時、ノーマンが一番大きな拍手を送ってくれた。ノーマンのおかげで、君は卒業式を迎えることが出来たのだ。
君にとってノーマンは大切な友達であり、いつでも傍に居てくれるかけがえの無い存在。ノーマンに背中を押され、どうにか君は中学校の門をくぐる。
君はほっとした。ノーマンに励まされながら恐る恐る教室に入り、上目遣いに顔ぶれを確認すれば、小学校の時の同級生は見当たらない。
「ほら、大丈夫だろ?」
ようやく息抜きが出来るね、とノーマンは君に笑いかけた。
家の中は、火が消えたように冷たく暗く重たい空気が澱んでいた。
君が台所で料理をしたり居間でテレビを見ようものなら、母さんが激しく壁を叩いてくるから、君は自分の部屋に籠るしかなくて、息抜きの出来る場所なんてどこにもなかったのだ。
ただ、学校で息抜きが出来るかと言ったら、そういうわけでもなかった。
ノーマンは君の味方にはなってくれるけれど、クラスで明るく騒ぐ男女のグループのようにはいかない。陽キャ組に混じりたいとは言わないが、せめてもう少し明るい空気を吸いたい。そう思う君に、
「じゃあマリヤを紹介するよ」
とノーマンが女の子を連れて来てくれたのが夏休みのことで、君は本当に久しぶりに、君とノーマンとマリヤの三人で楽しいひとときを過ごしたのだ。
けれど間もなくその関係は、音を立てて軋み出す。
夏休みが明けてから、マリヤはノーマンを煙たがるようになった。
「あたしの方が、ノーマンよりいろんなこと知ってるよ」
そう言って、マリヤは君を連れ出した。君の知らない世界だ。
世の中には、君と同じように居場所を無くした子が他にもいるということを、マリヤは教えてくれた。
「ワタリが君の代わりにお喋りをしてくれるから、心配しないで」
みんなの輪に入るのを躊躇っていた君を、ワタリというお喋り上手な明るい男の子がフォローしてくれるようになり、君は思い切ってマリヤの教えてくれた世界へ飛び込むことにした。
みんなの集まる街まで電車で行って、ハンバーガーショップでとりとめのないことを喋って笑って、間に合えば電車に乗って帰るけれど、間に合わなければそのまま朝まで街を徘徊する。
君は、みんなと一緒なら怖くはなかった。マリヤもワタリも同じ意見だ。
ただ一人、ノーマンは反対した。
「戻ろう。こんなことをしていても君の為にならない」
「ノーマン、あなたに何が分かるって言うの。ここには同じような仲間がいる。家や学校よりよっぽど楽しいよ」
「マリヤの言う通りだ」
君自身、マリヤとワタリに手を引かれている方が楽だったし、実際ノーマンのことを忘れている時間は増えた。
「ノーマンが居なくても、君は生きて行ける」
「マリヤの言う通りだ」
二学期の後半から君はほぼ教室に居なかったけれど、君の家庭環境を知った誰もが腫れ物に触るように君を遠巻きにしていたから、別に君が居ようが居まいが、誰も気に掛けなくなっていた。
静かに一年は終わりを告げ、春休みを迎える。君は中学二年になった。
中学二年でクラス替えがあった。
「君はやり直せる。マリヤもワタリもきっと分かってくれる」
ノーマンの優しい言葉に、君はばつが悪そうに笑う。今度はちゃんとするよ。そう君はノーマンに誓い、ノーマンも「応援するよ」と肩をだきしめてくれた。その手は温かくて、やっぱりノーマンは大切な友達なんだと君は自覚する。
マリヤとワタリはそれが面白くなかった。せっかく楽しい世界を見つけたのに、また一から居場所を作り直すなんて馬鹿げている。
「それに、一学期が始まったばかりだと言うのに、もう噂になってるわ。去年同じクラスだった子が広めてる」
「僕も聞いた。あの家、お父さんが居なくなってから二人ともおかしくなっちゃったんだよ、って。お母さんは暴れて物を投げるし、君は時々人が変わったようになるし、って」
「ノーマンが無理やり学校に行かせるからよ。行かなければ、そんな声を聞くこともないのに」
「マリヤの言う通りだ」
「ノーマンが居るから、いつまで経っても楽になれない」
「ノーマンのせいだ」
「ノーマンさえ居なければ」
「ノーマンさえ居なければ」
マリヤとワタリはそうノーマンを責め立てた。
五月の連休が終われば、君はまた中学校に行かなくちゃいけない。ノーマンが応援してくれるから、頑張って行かなくちゃいけない。連休が終われば、君はまた生きなくちゃいけない。
──やっぱりもう、生きたくない。
息を殺して過ごす家の中も。再びひそひそと囁かれる教室も。目を逸らされる街の中も。マリヤとワタリの言う通り、どんなに君が頑張ったところで、常にのっぺらぼうが立ち塞がる。
──それなら遠くへ行きたい。誰も居ないところへ。
「分かった。僕が行くよ。だから君はこの世界で生きて欲しい」
連休明けの五月八日。ノーマンは君の代わりに死んだ。
それからもうすぐ一年が経とうとしていた。君は今、母さんの実家に身を寄せている。
母さんは入院し、君は中学校には行かず通信教育で勉強をしている。もともと勉強の好きな君のことだ、ユノンという少し年上のお兄さんが応援してくれるおかげで、何とかモチベーションを維持していた。
けれど、マリヤはますます君の世話を焼きたがり、ワタリは追従笑いを浮かべて君の腕を引こうとする。君は母さんの実家で世話になっている身だから、今までのように朝まで街を徘徊することなんて出来ない。なのにマリヤは、あの楽しい世界へ行こうと君を誘うのだ。
君は家の人たちに気を遣いながら、そっと息を潜めて生きている。何処に行っても居場所がないのに変わりはない。ノーマンが居なくなっても、何も変わらなかったのだ。
何かが多すぎて何かが足りないまま。どうしたら良いか、君はユノンに相談をした。
「君は、マリヤとワタリに消えて欲しいのかい」
「消えて欲しい」
「分かった。僕に任せて」
そうしてユノンは、マリヤを消し、ワタリを消した。さよなら、マリヤ。さよなら、ワタリ。君の机の引き出しには、マリヤとワタリのお面がそっと仕舞われた。
君には分かっている。ユノンもじきに君を蝕んでいくだろうということが。この引き出しには、もうすぐユノンのお面も並ぶだろう。
君は、電源を落としたパソコンのディスプレイを覗き込んだ。暗闇に映るのは、つるりとしたのっぺらぼうの顔。
窓の外では、長い連休にはしゃぐ人々の声。青々と生い茂る木々に差す細い光。少し体を動かせば汗ばむような陽気。
五月八日はノーマンの命日だ。君は、やっぱりノーマンに帰って来て欲しいかい。
終。
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