眠り姫のいる風景

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 初夏の午後、窓から射し込む柔らかな光をいたずらに散らせるのは、季節外れの粉雪ーーではなく、舞い上がったちりである。寝ている人を起こさないように、くしゃみをこらえつつ日直の仕事をするのは想像以上に骨の折れることだった。騒音が御法度なこの場では、黒板消しクリーナーなどという教室で最も騒々しい機械は使えない。代替案として、ゴミ箱の前にしゃがみ込み、ブラシで地道に粉をはたいているのだ。煙たいったらありゃしない。それでも、この静かで満ち足りた空間を壊さないために僕は頑張るのだった。  今教室にいるのは僕と、眠り姫よろしく安らかな寝顔を見せている箕輪さんのふたりきりだ。時折手を止め、耳をすませると規則的な寝息が聞こえてくる。彼女のプライベートに踏み込んでしまっているような甘美な罪悪感に胸が疼く。憧れてやまない箕輪さんのことを独占できるなんて、こんな状況は滅多にない。いまこの瞬間くらい、贅沢をしたっていいよね。心の中で誰に向けてかわからない問いかけを投げた。  箕輪さんは高1の頃から僕の憧れの人である。物静かで、凛とした佇まいが美しい人だ。彼女は2年生の冬になって、突然軽音部に入部した。それ以来、いつも後藤たちが周りを固めていて、クラスメイトだというのになかなか話しかける隙がないのである。後藤たち、というのは箕輪さんが所属しているバンドのメンバーのことだ。よりによってなぜ奴らのバンドに入ってしまったのか。メンバーの中でも特に箕輪さんと仲のいい後藤は、ルックスも、賢さも、そして言うまでもなく音楽センスも、何もかも僕より優れているのだった。あまりの完敗ぶりに、もはや清々しいくらいだ。もっとも、能力云々以前に彼らが近づくよりも先に仲良くなっておかなかった僕が悪いのは自覚している。いまだって彼女の安眠を守ることくらいしかできることがないのが、不甲斐ないところである。  先日の軽音部のライブで箕輪さんと後藤のバンドの演奏を聴いたが、正直言ってメンバーの4人が皆、他を圧倒する演奏力をもっているようだった。それぞれ普段の学校生活では特別目立つ方ではなかったが、楽器を持ってステージに立つ姿からは、一般の高校生には出しえないオーラを感じられて驚いたものだ。箕輪さんがバンドマンになるなんてイメージがつかなかったが、どうやら元々ピアノの才能があるらしい。彼女にこんな特技があったなんて知らなかった。華麗な演奏に見惚れてしまった。見張れていたのは僕だけではなかったらしく、箕輪さんの加入で人気に火がついたらしいバンドは、今では校内きっての人気者たちとなった。  たとえ寝ていたとしても、手が届かなくなりつつある彼女とふたりだけのこの時間が、どれだけ奇跡的な瞬間かということがわかってもらえただろうか。そんなこんなの事情で、この素晴らしい空間を守るべく僕は地味な作業に徹していたのだ。  だが、それが世の理というものなのだろう。地道な努力も虚しく、幸福な時間はそう長くは続かなかった。いくら僕がこの場の静寂を死守しようとも、第三者の横槍までは防げなかった。清らかな静寂を破ったのは、無遠慮に扉を引く音、そして聞き覚えのある声だった。 「菜央?あれ、寝てるのか」  窓際の席で健やかに眠る箕輪さんにそっと声を掛けたのは、件の男、後藤だった。チッ。もう少し僕にいい思いをさせてくれたっていいのに。こういうタイミングの良さまで持ち合わせているのは、やはりちょっといけすかない。  控えめに椅子を引く音がする。どうやら後藤は箕輪さんが目を覚ますまで待つつもりらしい。もしあいつがこなかったとしたら僕が送るなんてことになったかもしれないのに。いやしかし、いざそうなったとして、僕がそんなことしてしまっていいのだろうか。なんてあらぬ想像を繰り広げていたが、数分後に世界の虚しさを悟るのだった。  やっとの事で黒板消しが綺麗になったので、足の痺れに耐えつつそっと立ち上がった。もちろん、箕輪さんを気遣ってのことだ。ここで大きな音を立てて彼女の健やかな睡眠を邪魔するわけにはいかない。しかしちらり、とふたりの方に視線を向けるなり、僕は再びしゃがみ込むはめになった。いや、本当は目を逸らす必要などなかったのかもしれない。パッと見には受け流してしまえるような、そんな些細な風景だったのだから。  ただ、後藤が箕輪さんを眺めていただけ。  それだけだ。  それだけなのに。  なぜだかはっきりとわかってしまったのだ。肘をついてだらしない格好で座っているのはいつものことだが、彼女へ向けた視線が物語っている。奴がどれだけ箕輪さんのことを大切に思っているか、その切実さが、不覚にも僕の胸を打った。後藤の視線がこんなにも一心に誰かに注がれることがあっただろうか。きっとないはずだ。  後藤のことをそこまでよく知っている訳ではない。それでも、僕は確信したのだ。そっと息を洩らした。完敗だ。戦ってもいないけれど。僕の入る隙間なんてこれっぽっちも存在しないのだ。僕どころじゃない。きっと、他のバンドメンバーでさえ入れない領域が、ふたりの間にはあるのだ。想像が過ぎるだろうか、いや、きっとこれは真実だろう。長らく箕輪さんを見守ってきた僕にはわかる。その証拠にほら、後藤が箕輪さんにそっと告げているではないか。 「俺の大切な眠り姫さん、そろそろ起きたら?」  クールな後藤に似つかわしくない、甘い告白にうっかりときめいてしまったではないか。もしや、少女マンガを読む人はこういうのを求めているのか?読んだことがないから分からないけれど。早まる鼓動を鎮めようと胸を押さえる。  ふたりがいるのは、ふたりきりでいるその場所は、きっと美しく満ち足りた世界に違いない。  彼らはおしゃべりではないけれど、内に確固たる自己をもっているところが似ていた。そして、その似ているところに互いに惹かれあっていることも、周囲からしたら明白であった。美しい世界の一端を垣間見てしまったようで、嫉妬心を抱くことすら躊躇われる。なぜだか悲しさよりもこざっぱりとした満足感を得てしまった。何より、僕のモットーは初志貫徹、である。音を立てずに教室を後にする。  静かで愛に満ちた空間を守り抜いた自分を誇りに思おうではないか。
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